〔キリストの裁きの座の前で〕
2014年11月25日(火)
教会は、罪責を告白することによって、それぞれの人間から自分の罪を告白することを免れさせるのではなく、むしろ人々を罪の告白の交わりの中へと招き入れる。堕落した人類は、ただキリストによって裁かれた者としてのみ、キリストの前に立つことができるのである。教会は、呼びかけることができるあらゆる人たちを、この裁きの下へ招くのである。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、579ff。
ヨハネの福音書3章17節には、イエスさまは、この世を裁くために来られらのではなく、救うために来られた、と書かれています。しかしその救いとは、神さまが正しい裁きをされることによってもたらされるということでもあります。そのイエスさまの正しい裁きの下に立たせていただくことによって、人間は救いを得るのです。
教会は、人々をこの裁きの下に招くという使命を、神さまからいただいています。
ですから、十戒を語らなければなりません。また十戒を犯してしまったものであることを、神さまの前に告白しなければなりません。
そうして正しい裁きを行なわれる神さまの前にこそ、まことの平安と希望があることを語らなければなりません。
(祈り)
神さま、罪人である私をあわれんでください。