〔キリストの裁きの座の前で〕
2014年11月23日(日)
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、天にいますわが父の意志を行なう者だけがはいるのである。」
(マタイ7章21節)「主よ、主よ」と言うことは、教会の信仰告白である。しかし、この信仰告白を口にする者がみな天国に入るわけではない。信仰告白をする教会のまっただ中を貫いて、選別が行われる。
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「『主よ、主よ』と言う者」とは、自分が主を肯定する言葉を語ったということを根拠として自分の権利を要求する人間のことであり、「行なう者」とは、従順な行ないをする謙遜な人間のことである。前者は、自分の信仰告白によって自分自身を正当化しようとする人間であり、後者、すなわち「行なう者」は、神の恵みに頼る従順な人間である。それゆえ、ここではまさに、「語る」という言葉が人間の自己義認を表わす概念となり、「行なう」という言葉が恵みを表わす概念となっているのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、575ff。
行いではなく信仰によって、それがキリスト教信仰であり聖書の語る信仰です。
しかし信仰告白が「行ない」になってしまうことがある、とボンヘッファーは語ります。正しい信仰告白をしているから、使徒信条を唱えているから、私は大丈夫だ、というのは聖書の語る信仰ではないのです。
本当に信仰告白に生きているならば、人間は謙虚に、従順に行いに生きる者となる、というのです。
謙遜と従順に隣人への奉仕、神さまへの奉仕に、具体的に生きることがないならば、それは本当に正統的な信仰告白に生きていないのです。口先だけで信仰告白を唱えているだけなのです。そこには救われた喜びも、充実もありません。
愛するということは、具体的なことなのです。
(祈り)
神さま、口先だけで信仰告白をして、見せかけだけの信仰に生きてきたことをゆるしてください。どうかあなたのみ心を行なう者にならせてください。御霊の実を結ぶものにならせてください。