〔キリストの裁きの座の前で〕
2014年11月19日(水)
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前に立ち、善であれ悪であれ、自分の行なったことに応じて、それぞれ報いを受けなければならないからである。」
(第2コリント5章10節)・・・
何ものも忘れ去られることがない。われわれが忘れるかどうかには関係なく、神が忘れないのである。
・・・
あらゆるものの終わりが来るとしたら、それは神と人間のあらゆる秘密が明らかにされる時となるであろう。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、569f。
最後にさばきの時がやってきます。私の過去も現在も将来もすべて神さまの前に記憶されています。私の行なったことのすべてについて報いを受けなければなりません。
なんと恐ろしいことかと思います。
しかしイエスさまの十字架と復活のあがないをいただいた者にとっては、このさばきの色合いが変わりました。完全なゆるしの実現と恵みの時となったのです。
私たちは終わりの日を知りつつ、今日を精いっぱい生きます。
(祈り)
神さま、今日一日を喜びと感謝によって送らせてください。