〔神の愛と教会の務め〕
2014年11月18日(火)
教会は、他のために存在している時にのみ教会である。新しい出発をするために、教会は、窮乏している人々に全財産を差し出さなければならない。牧師は、教会員の自由な献金によってのみ、場合によっては世俗の職業によって生活すべきである。教会は、支配者のように振舞うことによってではなく、まさに助け、奉仕することによって、人間の社会生活のこの世的な課題に参加しなければならない。
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教会の言葉は、何らかの概念によってではなく、「模範」によって重みと力を得るのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、567f。
この世には、さまざまな必要があります。それらに応えるために、さまざまな奉仕が存在しています。教会はその奉仕の一端を担っています。
この世が応えることのできない必要に、教会は奉仕しなければなりません。
この世が応えることのできることに、この世に代わって応えているならば教会の意義はないように思います。教会でしか応えることのできない奉仕をしていかなければなりません。それは何よりも福音宣教だと思います。
しかしその福音宣教が、真実の福音宣教となるために、教会はこの世に仕えて行きます。場合によっては福音宣教とはかけ離れたような奉仕であることも、それがその場その時に必要であるならば、教会は応えて行こうとすべきです。
そうして他のために存在している時にのみ真実の教会となるのです。
(祈り)
神さま、この世に仕えることを学ばせてください。