〔神の愛と教会の務め〕
2014年11月15日(土)
僕は宗教的な本性を持っていない。しかし、「本物であること」、「生きること」、「自由」、「憐れみ」については、僕はたくさんのことを考えている。僕にとっては、「宗教的な衣装」が、不愉快なものとなっているのだ。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、562f。
宗教的な衣装がいくら豊かであっても、中身がなければ意味がありません。生きること、自由や憐れみといったことが、考えられていなければ、意味がありません。
信仰に生きるということは、生きること、自由や憐れみを常に考えることです。それはイエスさまについていつも考えることです。そうでなければ、聖書を読んでも、宗教的な生活があっても意味がないのです。
しかし、聖書を読み、教会生活を送る中で、生きること、自由や憐れみを常に考え、イエスさまについて考えているならば、この世にあっての活動は豊かなものになるでしょう。
(祈り)
神さま、この世の様々な活動の中にあって、あなたのことを考える者にしてください。