〔神の愛と教会の務め〕
2014年11月12日(水)
この世には二つの現実があるのではなく、一つの現実があるだけである。すなわちそれは、キリストにおいてこの世の現実の中にあらわとなった神の現実である。キリストにあずかることによって、われわれは同時に、神の現実とこの世の現実の中に立つことになる。なぜならキリストの現実が、この世の現実をその中に含んでいるからである。
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「この世」という概念の真の意味は、この世が常にキリストにおいて神に受け入れられているものであり、受け入れられるものとなるということの中において見ることができる。
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もしこの世が、キリストの律法から離れ、自分ひとりで歩み続けるなら、無拘束と放縦とに陥ってしまうであろう。逆に、もしキリスト教が、この世から離れてしまうなら、不自然や不合理、高慢や放縦に陥ってしまうであろう。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、559f。
教会において、信仰的でないことを「世的」であるということがあります。それは世俗的なこと、聖くないこと、異教的なこと、伝統的なこと、習俗から来たこと、といったようなことを指して言われているのではないかと思います。
しかし、それが「この世」であるとすれば、神さまはその「この世」を愛されたと聖書は語ります。そしてその「この世」のためにいのちを捨てられたと聖書は語るのです。
もちろんこの世をそのまま受け入れることがいいわけではありません。しかしこの世は神さまに愛されている現実であることを見失ってはいけません。
この世で生きる私たちは、その現実の中に神さまが共にいてくださることを忘れないでいたいと思います。
また逆に、キリスト者は、この世に、その現実の中に生きていることを忘れないでいたいと思います。
(祈り)
神さま、いのちを捨ててこの世を愛しておられる、あなたの愛を学ばせてください。