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生のもつ多くの次元の中で生きる

〔神のすることはいつまでも存続する〕

2014年11月9日(日)

自分が生きていることが他者のためになっていると感じること以上の幸福はないであろう。その際、人数は全く問題にならない。問題なのは、自分が他者のためになっているということを感じる強さの度合だ。
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キリスト教の信仰は、僕たちを同時に、生のもつ異なった多くの次元の中に置く。僕たちはいわば、神と全世界とを自分の中に持つのである。
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僕たちは、自分の生命のことを心配するが、同時に、僕たちの生命よりもはるかに重要なことをも考えなければならない。人間の生は、ただひとつの次元に押し込めることができるようなものではなく、いつも多次元的であり、多声音楽的なものなのである。考えることができるということ、そしてこの考えることの中に多次元性を持つことができるということは、何という救いだろう。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、554f。

この文章が書かれたとき、ボンヘッファーは獄中にいました。獄中にいても、神さまとの交わりの中にあり、兄弟姉妹のことを考えていました。そして他者のために生きることを模索し、他者のために生きる道を選択し、そうして幸福感を感じていたのでしょう。

つながれていても、自由な人がいます。つながれていなくても、不自由な人がいます。

神さまとの交わりの中に生かされているということは、つながれていても自由に生きる道を私たちに得させます。

(祈り)
神さま、あなたとの交わりの中にあることを感謝します。


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