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安息日―恵みによって生きる生活の目に見えるしるし

〔私はあなたの主なる神である〕

2014年11月5日(水)

「あなたは、安息日を聖としなければならない」(出エジプト20:8、十戒の第三戒)。
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十戒は、<仕事をするように>という戒めは含まないが、<仕事を止めて休むように>という戒めは含んでいる。だが第三戒において、「仕事」は自明なこととして前提とされている。
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安息日の休息は、人間が人間のわざによっては生きず、神の恵みによって生きることの目に見えるしるしである。

「安息日を聖別すること」の不可欠の前提は、「安息日に休息をとるということ」である。仕事の機械と化した人間は、自分の考えを明らかにし、自分の感覚を純粋にし、自分の意志を新たにさせることができるように、休息を必要とするのである。

「安息日に休息をとること」の内容は、「安息日を聖別すること」である。安息日の聖別は、礼拝において神の言葉が語られることによって、また神の言葉をすすんで、恐れをもって聞くことによってなされる。
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「日曜日を聖別すること」の目的は、「日曜日に休息をとること」である。神は、神の民が神の休息に至り、地上の労働の日々から休みに入ることを望んでいる。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、548f。

一週間に一度、人間は休まなければなりません。人間はそのように造られているからです。日曜日を休まない、という、人間の誤った使い方をしてしまうならば、早々に人間は壊れてしまいます。

ただ、休んではいけないような状況の中で休んでいても、ちっとも安らげないでしょう。休みなさい、と神さまに命令していただくことは大切なことです。

休みといっても、ただ何もしない、ということがそのまま休みになるわけではありません。何もしないということで、かえって頭の中にいろいろなことが浮かんできて、ちっとも安らげないということもあります。
休みは、神さまの言葉を聞くことによって、はじめて成り立つのです。

一週間の始まりは、日曜日です。ですから、さあ始まりだ、という時に、先ず始めることは「休息」ということになります。それは、自分が、自分のわざによって生きているのではなく、神さまによって生かされているということを、確かにすることです。
神さまの恵みによって生かされているということを確かにするのです。

(祈り)
神さま、安息日を聖別することを、得させてください。


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