〔愛はいつまでも絶えることがない〕
2014年10月21日(火)
第1コリント13章8~12節。
われわれは、自分が憎んでいることや、憎んでいる人物を、たいていいつも、見誤ってしまう。われわれは、自分が愛する人間だけを知るのである。そして、その人について、自分が愛するのと同じ程度のことだけを知るのである。
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すべての本当の知識は、愛の一部である。しかし、そうは言っても、その愛はいまだに虚栄と、名誉心と、利己心とによって全体がおおわれている。だが、その愛の中に、完全性へのあこがれ、すなわち「部分的なものがすたれ完成したものが出現することを待ち望むあこがれ」がひそんでいるのである。
「完全なものが来る時には、部分的なものはすたれる」。―これは、部分的なものが、次第に完全なものへと上昇するということではない。そうではなく、まさに完全なものが、すなわち部分的なものによっては決して到達できないものが、全く自由に、全くみずからの力によってくる、そしてそのことによって、部分的なものがすたれるということなのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、522f。
本当に知るためには、愛さなければならない、ということでしょう。
愛することによって、本当に知ることができる、ということでしょう。
愛なくして、むしろ憎しみによって知ったとしても、それは本当に知ったことにならないということでしょう。
愛することは、ただちやほやとして、現実を見ないということのように思える場面があるかもしれませんが、それでも愛することを模索することによって、本当に知るということが起こるのです。また、愛のまなざしを傾けることによって、本当に知るということができるのです。
私たちの愛は、一部分でしかありませんが、やがて完全な愛が、その自由の中でやって来るので、その時を待ち望みましょう。待ち望みつつ、愛を傾けて行きましょう。
(祈り)
神さま、本当に知ることができるために、愛させてください。