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不確かさの終り

〔私はあなたのさとしを求めて喜びをもって歩むことができます〕

2014年10月18日(土)

人間は、何の葛藤もなしにあることをなし、他のことを―たとえそれが、論理的、倫理的に緊急なことであろうと―しないままに放置しておくことも許されているのである。
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神の戒めは、日常的な、やっと目に見えるほどの小さな、ほとんど意味のないような言葉、発言、暗示、助けという形をとることによって、人生にひとつの方向と、個人的な導きを与えるであろう。
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神の戒めが与えられているのは、われわれが人間としての限界を越えることを避けるためでもなく、倫理的に板ばさみとなることによって生じる苦悩や、決断する際の苦悩にわれわれを追いやるためでもなく、むしろ、教会、結婚、家族、労働、国家において何の留保もなく肯定されるありのままの生活へとわれわれを導くためである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、517f。

信仰は日常的な生活の中での歩みにおいて、その真価が問われます。
日常的な生活の中で、いかに神さまの喜ばれる道を歩んでいるか、いかに隣人を愛しているか、が問われます。
それは、状況に応じて、あるいは状況に振り回されて生きることではなく、神さまのみ心を確信して生きることによって可能となります。

いかに論理的、倫理的に緊急なことであろうと、神さまの導きの中にないならば、平安と自由を持ってしないという決断に生きます。
逆に、論理的、倫理的に緊急なことでなかったとしても、神さまの導きの中にあるならば、平安と自由を持って行うのです。

(祈り)
神さま、あなたの導きの中に歩ませてください。


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