,

諸国民は待っている

〔平和についての証言〕

2014年10月9日(木)

平和はいかにして達成されるのか。政治的な条約の積み重ねによってか。いろいろな国に国際資本を投資することによってか。あるいは、平和の確保のためにあらゆる方面で平和的な再軍備をすることによってか。そうではない。これらのことによっては、平和は来ない。なぜならここでは、「平和」と「安全」とが混同されているからである。「安全」に至る道を通って、「平和」に至ることはできない。なぜなら平和は、そのためにあえて行動しなければならないものだからである。「平和」は、「安全」の反対なのである。安全を求めるということは、相手に対する不信感を持つということである。そしてこの不信感が再び戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。これに対して、平和とは、神の戒めにすべてをゆだね、安全を求めないということであり、信仰と服従によって諸国民の歴史を全能の神の手にゆだねることであり、諸国民の運命を自分に都合よく左右しようとは思わないことである。武器による戦いには、勝利はない。神と共になされる戦いのみが、勝利を収める。そのことによって十字架に行き着くことになっても、勝利はなおそこにある。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、500f。

平和と安全は違うものであり、それらは正反対の位置にある、といいます。
安全を追い求めると、平和は築けない、ということでしょう。
平和を築くためには、安全を後回しにしなければならない、ということでしょう。時に十字架を負うことになるということでしょう。

安全地帯にいて、世界を戦争にかりたてている人々がいる一方、自らの安全を後回しにして、平和を築く人々がいます。私はどちらに立っているだろうかと思います。

(祈り)
神さま、自らの安全ではなく、地に平和を求めることができますように。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: