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命じられている道を歩むための準備

〔あらゆることを主のみこころどおり行ないなさい〕

2014年9月25日(木)

「また、断食をするときには、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。」(マタイ6:16~18)

弟子の生活は、厳格な外的訓練を必要とする。このことは、イエスに対する信仰以外の何ごとかによって古い人間が日々死ぬということを意味するのではない。そうではなく、イエス・キリストに自分の意志を砕かれる信仰者こそがまさに、自分の怠惰と放縦を認め、それが打ち砕かれるべき高慢の源泉であるということを知るということなのである。これは、訓練という日々の習練によって、初めて可能になることである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、473f。

信仰のみによって救われるということを強調するプロテスタントですが、それは、訓練、習練ということを否定しているのではありません。あるいは軽々しく扱っているのではありません。
イエスさまの恵みを知り、イエスさまの御心に生きるために、訓練や習練は必要なのです。それは「厳格な外的訓練」です。

もちろんそういうことが逆に、信仰のみによって救われるということを小さくすることでもありません。イエスさまへの信仰によってのみ、古い人間が日々死ぬのです。

ですから、イエスさまによって自分自身の意志を砕かれるために、厳格な外的訓練が必要なのです。

イエスさまへの信仰に生きるということは、神さまを愛し、自分自身を愛するように隣人を愛するようになるということです。それこそ、恵み豊かな祝福された人生を私たちにもたらすのです。
そのために習練が必要です。日々のみ言葉、祈り、デボーション、週ごとの主日礼拝、定期的な祈りによる兄弟姉妹との交わり、などなど。以上のようなことを大切にするために、良い生活習慣を持つこと。
例えば、キリスト信仰から引き離し自分中心とさせてしまうような悪習慣から離れること。はっきり言うと、習慣的な飲酒やギャンブル、身体に健康問題を生み出すことがわかっている嗜好品の過度の摂取などの中にあって、キリストの恵みを知ることはできないでしょう。少なくとも、外的訓練なしに、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する生活が深まることはありません。

イエスさまに自分の意志を砕いていただくために、自分の中にある怠惰と報酬という高慢の源泉と戦うものでありたいとおもいます。

(祈り)
神さま、どうか私の中にある高慢を取り除いてください。


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