,

祈りは大きな約束のもとに置かれている

〔あらゆることを主のみこころどおり行ないなさい〕

2014年9月22日(月)

弱々しい言葉であっても、イエス・キリストの名によって祈りが捧げられるところでは、他者の祈りを観察したり、批評したりする必要は全くなくなる。
・・・
自由な祈りとは、人間の心を混沌としたまま発散させるようなことでは決してなく、秩序づけられた交わりの捧げる祈りなのである。そこで、自由な祈りを主観的な気まぐれから解放させるために、祈りを聖書朗読と結びつけることが有益であろう。
・・・
自由な祈りは、たとえへたな口ごもりながらの祈りであっても、あらゆる形式化された祈り以上のものである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、468f。

祈りことができることは本当に感謝なことです。
形式的な祈りも形式的でなく、自由な祈りも放縦でなく、いのちに満ちた形式と放縦ではない真の自由な祈りをささげることができることは本当に感謝なことです。
どんなに孤独に見えるところでも、神さまに「あなた」と祈ることができるのです。
私たちは独りぼっちではないのです。

(祈り)
神さま、祈ることができますことを感謝します。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: