〔一つの体―お互いはその部分〕
2014年9月19日(金)
「人間のほまれを受けながら、唯一の神からほまれを受けようとしないあなたがたは、どうして信じることができるのか」(ヨハネ5章44節)
自分の名誉を求めることは、信仰を妨げることになる。自分の名誉を求める者は、すでに神と隣人を求めていないことになる。
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「恵みによる義認」に基づいて生きる者は、侮辱や不正に対しても逆らおうとせず、むしろそれを、人を裁いたり人に恵みを与えたりする「神の手」によるものだと理解する。
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交わりの中で自分に向けられた侮辱や不正をあまりに気にしすぎることは、それ自体ひとつの罪である。そしてこの罪こそが、交わりの中に、どんなに多くの間違った名誉欲がいきているか、どんなに大きな不信仰が生きているかということを、繰り返し示しているのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、463f。
神さまの一方的な恵みよって救われ生かされているにもかかわらず、自分の中のどこかで名誉を求めていることに気づきます。これは罪であり不信仰です。自分の名誉を求める生き方の中には信仰はありません。あるいは信仰がないから自分の名誉を求めるのです。
この自分の名誉を求める不信仰な生き方は、交わりの中で自分に向けられた侮辱や不正をゆるすことができません。気になって仕方がないのです。自分は周りの人からどのように思われているか。自分が正しく扱われているか。そういうことが気になって仕方がなくなるのです。
自分の名誉を求める生き方と、自分に向けられた侮辱や不正を気にしすぎる生き方は、一つのことなのです。
(祈り)
神さま、自分の名誉を求める生き方から自由にしてください。そのためにあなたからの一方的な愛の大きさを教えてください。