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愛のみが鎖を解き放つ

〔愛は忍耐強く、情け深い〕

2014年8月29日(金)

「愛は忍耐強く、情け深い」。
この言葉は、<愛は待つことができる、長い間、しかも終りまで待つことができる>という意味である。愛は決して性急にならず、何ごとをもあわてさせず、また強いたりはしない、愛は、時間を長い単位で計り、<愛以外のものを、最後には、愛によって克服する>ということだけを考慮に入れる。そしてすべてが完全に水の泡になってしまったと思われるところでも、待ち望み、忍耐し、愛し続け、さらに情深くあろうとするのである。まさにこのことが、人間を克服する。
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「愛」が待ち望むのは、ちょうど、道に迷ってさまよい歩いている人を長い間待ち、その人が<ともかく自分のほうへ近づきつつあるのだ>というただそれだけのことで喜ぶようなものである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、428頁。

愛は、忍耐強く情け深いのです。
忍耐は情け深いことでそれが真実の忍耐であることがわかります。情け深くないならばそれは忍耐ではありません。ただ我慢しているだけです。我慢は、我を慢心させると書きますので、結局自己中心なのです。忍耐はそれとは違います。情け深いのです。

愛が忍耐強く情け深いのは、愛が希望を持っているからです。愛しているということは希望を持っているということです。ですから忍耐には希望があります。我慢にはそれがありません。

性急にならず、強いず、時間を長い単位で計るのです。
主にある者は永遠のいのちをいただいているのですから。どんなに長い時間を待つことになったとしても永遠よりは短いのです。

ですから私たちは常に待ち望むことができるのです。

(祈り)
神さま、忍耐強く、情け深い愛に生かせてください。


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