〔それぞれにはそれぞれの時がある〕
2014年8月27日(水)
旧約聖書と新約聖書の違いは、旧約聖書においては「祝福」が十字架を内包しているのに対して、新約聖書においては「十字架」が祝福を内包しているというところにあるち言える。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、424頁f。
祝福と十字架は対立するものではなく、旧約聖書においては祝福が十字架を、新約聖書においては十字架が祝福を、互いに内包している、とボンヘッファーは語ります。
そうすると私たちの問題は、十字架を内包しない祝福を求めているところにあり、また、祝福を内包しない十字架を負っているところにあるといえるでしょう。
十字架、すなわち苦しみや重荷を、内に包み込んでいる祝福こそ、私たちに本当の幸福をもたらす祝福であり、逆に苦しみは重荷を、そのうちに包み込んでいない祝福は、私たちを真に生かす祝福ではないということになります。
また日々十字架を負って私についてきなさいと言われたイエスさまのお言葉に従って、苦しみや重荷を背負いながら生きようとするとき、その苦しみや重荷の内に祝福が包み込まれているということを信じなければならないということでしょう。
あるいは祝福がその内にあると信じて、苦しみや重荷を背負う時にこそ、正しくしっかりとその苦しみや重荷を背負うことができるということでしょう。
(祈り)
神さま、十字架を内包している祝福を与えてください。そして祝福を内包されている十字架を背負わせてください。