〔それぞれにはそれぞれの時がある〕
2014年8月21日(木)
もしある人がどんなに強い愛を持っていたとしても、その愛ゆえにこそ人間の生のポリフォニー〔多声から成り立つ音楽〕とでも言ってよいものを失ってしまうという危険がある。
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定旋律が明瞭で判然としている場合、対旋律は可能な限り力強く展開されていくであろう。定旋律と対旋律は、キリストにおける神性と人性がそうであるように「分離されないが、区別されて」〔カルケドン信条に使用されている言葉〕存在するのである。
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このポリフォニーの中に置かれる時、人間の生は初めて完全なものになる。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、415頁f。
ポリフォニー、定旋律、対旋律。いずれも音楽用語のようです。
今日、聖歌などを歌う場合、主旋律と副旋律ということで歌う場合が多いと思います。そこでは、多くの人が主旋律を歌い、それの伴奏のように、副旋律が歌われていきます。これをホモフォニーというそうです。
これに対して、ポリフォニーは、定旋律と対旋律ということで、それぞれが、メロディー、リズムなども区別されて歌われていくもののようです。
愛は、どんなに強い愛であっても、ポリフォニーの中でこそ、意味があるということでしょう。またポリフォニーの中でこそ、本当の愛になり、そのような愛の生かされることこそ、人間の生は完全なものとなる、ということでしょう。
どんなに強い愛でも、ひとりよがりで自己中心であるならば意味がないのです。お互いが尊重されお互いが生かされることでないと、強い愛は単に不快な雑音でしかないということでしょう。その場合強ければ強いほどやっかいです。
そんなやっかいな愛になってしまってはいないかと自分を反省します。
(祈り)
神さま、互いに生かす愛の中におらせてください。