〔神の忍耐のもとにある生〕
2014年8月6日(水)
「人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った。『わたしは主によって、ひとりの人を得た』。」(創世記4:1)
カインこそは、呪われた地で生まれた最初の人間なのである。このカインをもって人類の歴史が、死の歴史が始まる。なぜなら、死に向かって保持されるアダム、生の渇きに憔悴したアダムが、カインという人殺しを産んだのだからである。
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なぜカインは人を殺したのであろうか。それは神に対する憎しみからである。そしてこの憎しみは大きい。
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カインによって始まる死の歴史は、そしてそもそも歴史そのものは、十字架上のキリスト、殺された神の子によって終りを迎える。キリストを十字架にかけることは、楽園の門に対する最後の必死な襲撃の試みであった。そして、人類は、楽園の「まわる炎のつるぎ」に打ちたたかれて、十字架のもとで死滅することになった。しかし、キリストは生きるのである。そして十字架の柱が「生命の木」となり、世界の中央に、すなわち十字架の木の置かれた場所に、「生命の泉」がわき上がるのである。いのちに渇く者はすべてこの泉のもとに招かれ、この生命の木の実を食べた者は二度と飢え渇くことがなくなるのである。ゴルゴタの丘、この十字架、この血、この裂かれた肉は、何と驚くべき「楽園」であることか。神自身が、苦しみ死ななければならなかったこの柱は、何と驚くべき「生命の木」であることか。これこそ神によって恵みのうちに再び与えられた生命の国、復活の国である。これこそ朽ちることのない希望と、待望と、忍耐の、開かれた門である。生命の木、キリストの十字架、堕落しているにもかかわらず保持されている神の世界の中央、―これこそわれわれにとって、楽園物語の終りである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、389頁f。
神さまへの怒りが隣人を殺すこととなりました。
隣人への殺意を持つ人間は、どこか神さまへの怒りをいだいているということでしょう。神さまと言わなくとも、運命や自分の人生、境遇への呪いもあるでしょう。
その殺意は、結局のところキリストを十字架につけることとなりました。
しかしそのことが、私たちにとって、救いの道を開くこととなったのです。
(祈り)
神さま、新しいいのちに生きる道を教えてください。