時折、教会のWEBページより「こちらの教会の教えは大丈夫ですか? まともな教会ですか?」とのお問い合わせをいただきます。教会にお見えになろうと願いが起こされ、その前に一度どのような教会であるのか尋ねてみようということでお問い合わせをいただくのでしょう。
そこで改めて教会の姿を少し思いめぐらせてみたいと思います。どのように書けば要領よく書き表すことができるか自信がありませんが、カルトとの違いを材料に考えてみたいと思います。
「カルトか宗教か」(竹下節子著 文春新書より)
(1) 勧誘の仕方がしつこい。うたい文句の約束は果たされたか。
(3) メンバーは自らを特別に選ばれた人間と思い込んでいないか。
(6) 金銭はどう集め、だれが使うか。収支は公開されているか。
(1) 勧誘の仕方がしつこい。うたい文句の約束は果たされたか。
隣人の幸せ、祝福を願い、自らの手の中に、その祝福の鍵があるとすれば、お伝えしたいというのは、人情であり愛でしょう。ですから教会は伝道、つまり道を伝えるということをします。
しかし信仰というのは、首根っこをひっ捕まえて信じろ~と脅迫や強制するところには決して生まれるものではありません。蒔かれた種が、人知れず芽吹き、成長し、花を咲かせ、実を結ぶように、信仰は生まれ成長するものです。ですから健全な教会は、伝道をしますが、脅迫や強制はしません。
「うたい文句」ということですが、教会にうたい文句があるのかと言えば、あまりないような気がします。こうすればこうなる、などということはあまりありませんし、説教でも語られません。ですから時折牧師さんの説教は聞いていてもわかりにくいな~と言われます。すみません。
(2) 教義に一般的な科学知識とかけはなれたものはないか。
聖書は、神さまが天と地を創造したと語りますし、イエス・キリストは、処女降誕と十字架の死の後復活をしたと語ります。創造論や処女降誕、復活は、一般的な科学知識とは全くかけ離れています。そういう意味では、もしかしたらカルトの基準に重なっているのかもしれません。しかし創造論、処女降誕、復活は、キリスト教信仰の大黒柱であり、これがなければキリスト教でなくなりますから、この基準で行くと世界宗教人口のトップで3割を占めているキリスト教はすべてカルトということになります。
ただ、聖書は、科学の教科書ではありません。信仰の書であり、人生の書です。例えば、「ももたろう」の絵本を読んで、ももから赤ちゃんが生まれるなど非科学的だ、といって否定するかと言えばそうでもありません。そこに描かれている意味や込められている心を味わいます。それと少し似ていると思いますが、創造論や処女降誕、復活も、科学的ということではなく、そこに込められた信仰の心を学んでいきたいと思っています。
どこかの国で中絶反対派の人が中絶を行なった医師を射殺するという事件が起こっているそうです。中絶に反対する理由は、「汝殺してはならない」という十戒からだと思いますが、それを大切にするあまり結果的に殺人を犯しているということは、本末転倒していると思います。イエスさまはこのような偽善を戒めてくださったのだと思います。
きよさを大切にするために、教義とは言わないまでも、いろいろなルールや教えを、教会は語っていますが、教会が一番大切に語っているのは神さまの愛であり隣人への愛ですから、ルールや教えを主張するあまり、人を否定し、人を殺すことであれば、本末転倒しているのですから、それは私の願うキリスト教会のあり方ではありません。
(3) メンバーは自らを特別に選ばれた人間と思い込んでいないか。
聖書は、人間はみな罪人であると語りますので、そのことを自覚したという意味では、特別に選ばれたという意識を持っているかもしれません。しかしいわゆるこの世の中で特別に優れているといった「選民意識」は持っていません。あるいは持つべきではないと思います。
少し話しはそれますが、
旧約聖書にはイスラエルの平和のために祈ることが語られていますが、それを現在のイスラエル問題にあてはめることはしません。現在のイスラエルで起こっていることは、大国の都合を背景に起こっている民族紛争ではないかと思います。
私は、教会はイスラエルの味方でも、アラブの味方でもないと思います。間違っても旧約聖書の聖戦をそのまま現代のイスラエル国家にあてはめてはいけないと考えています。世界各国の平和のために祈るのとまったく同列の中で、イスラエルの平和のためにも祈ることはあり得ると思いますが、特別に祈ることはありません。
人間はみな罪人なのです。世界に向かってはただ、ごめんなさい、としか言えないものなのです。それを忘れて、なにがしか特別な人間になったかのように世界をさばく者はもはやキリスト者ではないといわざるを得ません。
(4) グループでしか通用しない特殊な言葉が多いか。
これは、常々反省します。できるだけ一般的な、平易な言葉を使おうと努力していますが、多くの場面で失敗しています。
ぜひご質問ください。
教会はお互いを家族とし兄弟姉妹と考えていますので、時々「~兄」「~姉」と言ったり書いたりするのですが、始めてこられた方のことを考えると、できれば「~氏」「~さん」とする方がよいようにも思っています。ちなみに前任の教会では、週報に氏名を書く場合は「~さん」で統一していました。
(5) 祈りや修行に集団的な熱狂や異常な感動があるか。
よく映画などでアフリカ系アメリカ人の中心の礼拝でゴスペルが歌われる場面を、ご覧になられたことがあるでしょうか。そこでは少なからずパッションがあると思います。「天使にラブソング」などもそんな感じが少しあったと思います。しかし熱狂や異常な感動はなかったように思います。
私も礼拝が盛り上がればいいなと考えないわけではありません。神さまの愛が熱く語られ、礼拝をささげる者はその神さまの愛に熱く感謝することでありたいと思いますが、どういうわけか説教が始まると眠りはじめる人がいて、語る者はがっかりしたり、お話しが面白くないんだな~と自分を責めたりします。しかしカルトではないという意味ではそれくらいが健全なのかもしれません。
聖書の中には「異言」という言葉が出てきます。これは宗教的な言葉で、この世のことばではなく、何やら特別な言葉です。私はこの異言を否定していませんが、公の場所で祈ることはコントロールしてほしいと思っています。ですから礼拝でも祈祷会でも、自分の言葉で、自然に神さまにお話しをするように祈っています。
(6) 金銭はどう集め、だれが使うか。収支は公開されているか。
キリスト教会では多くの場合礼拝にて席上献金があります。袋やかごがまわってきます。参加者は心からのささげものをしますが金額が決まっているわけではありませんし、その日持ち合わせがなかったならば、そのまま隣の人に回せばいいだけです。
奉仕者(多くの場合は牧師さん)の給与、教会の運営に使われます。毎月第2日曜日ぐらいに会計報告書がみなに配布されます。一年に一度は、総会が開催され(1月の下旬か2月上旬)、年間の会計報告、財産目録、監査報告がなされます。ちなみに私たちの団体は、厚生年金、社会保険を導入していますので、給与規定に従って管理され支給されています。給与に関する所得税は源泉徴収し毎月納付されています。
(2014年8月5日)