〔責任を負うこと〕
2014年7月17日(木)
イエスは、神の子でありながら人間となって、われわれに代わって生きたのであるから、あらゆる人間の生は本質的に彼が代わって生きた生であると言える。
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代理は、そしてそれゆえに責任は、ただ自分自身の生活を他の人間のためにささげつくすところにのみ存在する。ただ自分を無にする者のみが、責任をもって生きることができるのである。
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代理として生きるということが誤解されると、それは自己絶対化と他者絶対化という二つの危険に陥る。
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この両者のいずれの場合も、イエス・キリストにおける責任ある生活の起源、本質、目標を否定し、責任というものを自分でつくりあげた抽象的な偶像としてしまっている。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、353頁f。
自分をささげつくすということは、自分を無にするということであって、自己絶対化でも他者絶対化でもない、とボンヘッファーは語ります。そうして初めて責任ある生活をすることが実現されるというのです。
自分の力でささげるという生き方を実現するならば、どうしても自己絶対化か他者絶対化に陥ります。
ただイエスさまのみ手の中に自分の生をゆだねること。自分の生はイエスさまにあることを確かにしなければなりません。
自分の与えられた責任を果たすのは、すべてをイエスさまにゆだねること、においてのみ可能です。
(祈り)
神さま、自分の力ではなく、ただあなたの導きと力によって生かせてください。