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私は生命である

〔責任を負うこと〕

2014年7月16日(水)

われわれは、ただ生命というものを生きることができるだけなのであって、定義することはできないのである。しかしイエスの言葉は、生命についてのあらゆる思想をイエス自身の人格に結びつける。「わたしは生命である」。
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生命とは、物や本質や概念ではなく、一個の人格であり、しかも特定の唯一の人格である。この人格は、「わたしは生命をもっている」とは言わず、「わたしが生命である」と言う。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、351頁f。

人間はただ生きているのではなく、神さまによって生かされています。神さまがいのちを私たちに与えてくださっています。この与えられているいのちとはいったいなんであるのか。
いのちとはイエスさまご自身であると聖書は語ります。生かされている者は、私の中にキリストご自身がおられると告白することができます。
このキリストは私が持っているもの、所有しているものではありません。人格であるキリストが存在しておられるのですから、むしろ私のほうがこのお方に所有されているのです。
そうであれば、いのちをいただいているのだからそれを大切に一所懸命生きようと、自分の力で頑張ることよりも、すでにいのちそのもののお方が共にいて私を所有しているので、いのちそのものを私の手から離し、イエスさまご自身のみ手にゆだねようということこそふさわしいことです。

(祈り)
神さま、私のいのちをあなたの御手にゆだねます。


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