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われわれの不安の表現か神の自己証言か

〔はじめに神は・・・・・・〕

2014年6月25日(水)

聖書は、神の自己確認、自己証言、啓示をもって始まる。
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ここでただひとり「はじめ」にいる方が、語っているのである。われわれが生き、考え、またそのことで不安をいだくよりも前に存在する方が、語っているのである。
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「はじめに神は・・・」。この言葉は、この神が遠くにおり、休息し、永遠に存在するだけの神ではなく、創造する神として、この「中間」において、この言葉と共に生きている方であるなら、真実である。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、315頁f。

私たち人間は限界のあるものです。初めと終わりを知りません。それらの中間に生きています。神さまだけが初めと終わりを語ることができます。

唯一初めを語ることのできる神さまが、中間にしか生きることのできない私と共にいてくださいます。私と共にいて、創造者であることを啓示していてくださいます。
中間にしか生きることのできない不確かで心もとない私に、創造者であるお方が共にいて確かな言葉をかけてくださいます。

神さまのみ声に聴く時、確かな人生を歩むことができます。

(祈り)
神さま、限りのある私に、無限の愛をお持ちのあなたが語りかけてくださることを感謝します。


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