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言葉はいつ故郷を失うのか

〔真実を語るとは何を意味するか〕

2014年6月22日(日)

すべて語られる言葉は、ある特定の場所に生き、そこに故郷を持っている。家庭における言葉は、事務所や公の場所における言葉とは異なる。個人的な暖かい交わりの中で生まれた言葉は、公の冷たい空気の中では、こごえてしまう。職場で発せられる命令の言葉は、家庭の間ではその信頼のきずなを断ち切ってしまう。すべての言葉はそれぞれの場所を持つべきであり、またその場所を持ち続けるべきなのである。しかし、さまざまの異なった言葉の境界線が失われてしまう時、すなわち言葉が自分の置かれている場、すなわち故郷を失う時、その言葉は真実性を失い、ほとんど必然的に「虚偽」となってしまう。生活のさまざまの異なった秩序が相互に尊重し合わなくなる時、もはや言葉は不真実なものとなってしまうのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、309頁ff。

語られる言葉には、それが語られるにふさわしい時と場所を持っているということです。
親しい関係であるべきところで、「あなた」とか「彼」という言葉を聞きますが、いつも違和感を感じます。もともと日本語の会話の中にはこのような言葉はなかったのではないかとさえ思います。海外のことばを翻訳するのに、仕方なく使われたことばのような気がします。ですから日常会話の中で「あなた」とか「彼」という言葉が出てくると、違和感、あるいはどこか嘘っぽい感じがするのです。

親しい間で、あるいは親しい関係であるべきところで、「あなたは~」と語りはじめられると、そこには少なからず「非難」のにおいを感じます。同じく「彼は~」などと語りはじめられると、とたんに語る人がその「彼」と呼ばれた人を見下しているかのように感じてしまいます。

時と場所を間違えた言葉は、いくら正しいことが語られていたとしても、人を傷つけ、それゆえ不真実な言葉となるのです。

(祈り)
神さま、故郷を失わない言葉を語らせてください。


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