〔イエス・キリストのかたちと同じかたちをとること〕
2014年6月11日(水)
マタイ5:13
弟子たちは、イエスによって、地上で最も必要なものにたとえられている。彼らは、「地の塩」である。彼らは、地が所有している最も高価な宝であり、最高に価値あるものなのである。彼らなしに「地」は生きることができない。「塩」によって「地」は保たれる。この世がさげすむこの「貧しい者」、「卑賤な者」、「弱い者」によって、「地」は生きる。
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イエスが自分自身のことではなく、弟子たちのことを「塩」と呼ぶ時、イエスは弟子たちに地上で働くことを委託しているのである。イエスは自分の仕事に弟子たちを引き入れる。イエスはイスラエルの民の中にとどまるが、しかし弟子たちには全地をゆだねる。「塩」が塩であり続けることによって、つまり塩が清める力、味つける力を保持することによって、「地」は保たれるのである。
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「あなたがたは塩である」-これは<あなたがたは塩でなければならない>ということではない。塩になることを望むか望まないかが、弟子たちの意志にゆだねられているのではない。<地の塩になれ>という訴えが弟子たちになされているのでもない。そうではなく、そのことを望むにしても望まないにしても、弟子たちに向けられている招きの力によって、彼らは「塩」なのである。
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もちろん、塩のききめがなくなり、塩が塩でなくなってしまうという可能性もある。・・・地は教会によって救われなければならないのであるが、教会であることをやめてしまった教会には、地を救うことができず、救いからもれてしまうのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、288頁f。
塩の力は、清める力と味つける力である、とボンヘッファーは語ります。キリスト者がこの地上に置かれている意味は、清める力と味つける力を発揮しているというところにあります。
キリスト者はこの世界から見れば、「貧しい者」「卑賤な者」「弱い者」であるかもしれません。しかしそのキリスト者によって、この地は清められ、味つけられるのです。
イエスさまは、地の塩になりなさい、といわれるのではありません。神さまのご意志と、その全能において、あなたがたは地の塩であると宣言され、また招かれているのです。
ただ神さまが与えて下さった自由意志。それは神さまを愛するために発揮されるべきものですが、神さまを愛するために発揮されず、キリスト者がキリスト者であること、教会が教会であることをやめてしまうという選択をしてしまった時、この地にを救うことができず、救いからもれてしまう、とボンヘッファーは語ります。
(祈り)
神さま、地の塩としてこの世界の中に召していてくださることを感謝します。