神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら

静まりの時

  • テーマ:主の栄光があらわれた
  • 聖書箇所:第一ヨハネ1・5~10
  • 日付:2025年12月27日(土)

5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

神さまとの交わりが回復された私たちは、光の中を歩むようになりました。主にある者は光の中を歩みます。また光の中を歩むことを喜びとします。

しかし光の中を歩むようになったということは、闇の中を歩むことができなくなった、ということではありません。依然闇の中を歩んでしまうということも可能です。光の中を歩むのか、それとも闇の中を歩むのか。私たちには常に選択が迫られています。

もし光の中を歩んでいるならば、そこには「互いに交わりを持つ」という道が築き上げられていきます。そして御子イエスの血、すなわち十字架上で流された血によって、私たちはきよめられます。

御子イエスの血。それは十字架の上で流された血である、と同時に、聖餐式でいただく血でもあります。聖餐に与るごとに、私たちはきよめられていくのです。

8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
10 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

「自分には罪がない」「罪を犯したことがない」と主張するならば、自分自身を欺いていることである。またそれは神さまを偽り者とすることである。そうであれば、私たちのうちに真理も神のことばもない。真理に歩む、みことばに歩む、ということは、自分自身が罪びとであることを見失わない生き方である。

自分が罪びとであることを見失わない生き方こそ、光の中を歩むことである。光の中を歩むというのは、罪を犯さないことではなく、自分が罪びとであることを自覚しつつ、その罪が主の十字架によって赦されたことを感謝する者である。

逆に闇の中を歩むということは、罪を犯すということではなく、神さまによって罪が赦されていることを忘れてしまうことである。自分は罪を犯したことはない、自分こそ正しい人間である、とする生き方のことです。

自分が罪びとであることを見失わず、神さまに罪を赦していただいた者であることを忘れない。そういう自らを欺かない生き方は、ともに生きる人びととの交わりを豊かにする。もし交わりがない、あるいは破壊されてしまっている、と感じるならば、自分が罪びとであることを見失ってはいないだろうか、神さまに赦された罪びとであることを忘れてしまってはいないだろうか、と振り返らなければなりません。

主にある者は、このようにして神さまとの交わりの中に生きていくことを喜びとします。


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