静まりの時
- テーマ:主は近い
- 聖書箇所:マタイ25・1~13
- 日付:2025年12月16日(火)
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
私たちは主の再臨に備えていつも信仰に生きるようにと招かれています。信仰的に眠っていないで目を覚まして、祈りに、礼拝に、証しに励みたいと思います。
あらためて、このたとえにおいて「ともしび」とは何か、「油」とは何か。
ともしびを信仰と理解すると、愚かな娘も賢い娘も同じように信仰をもっていたのです。しかし愚かな娘は油を持っていませんでした。信仰を持っているかどうかではなく、油を持っているかどうかが、主の再臨に備えることにおいて大切なことなのです。
油を、聖霊の油注ぎ、と理解し、いつも聖霊に満たされ、ただ信仰を持っているというのではなく、熱心に信仰に生きるように招かれていると理解できるかもしれません。
それに対して、ある先生は、油を、恵み、と理解し、信仰に生きるにおいて、恵みを持っているかどうかを大切に考えようとしておられました。イエスさまがこの地を歩まれた2千年まえのユダヤ。そこでイエスさまに敵対した人たちに律法学者、パリサイ人といった当時の宗教家の群れがありました。彼らは信仰がなかったわけではありません。むしろ熱心な信仰に生きていたのです。回心前のパウロなどは、キリスト者を迫害するほどに熱心でした。そういう意味では、聖霊に満たされた人たちだったのです。しかし決定的に足りないものがありました。それは、恵み、です。
信仰はあるけれども恵みが備えられていない。恵みというものは、愚かな娘が賢い娘に求めても与えられないように、自分で手に入れなければならない。誰かの空腹を満たしてあげようとして代わりに私が食事をしたところで、その人の空腹は満たされることがないように、誰かに代わって備えることができない。
恵みは、店に行って自分の分を買わなければならないように、自分で作り出すことができない。与えられるものです。そもそも恵みは、与えられるから恵みというのです。
信仰に生きる私たちは、常に「恵み」を備えている。恵みという油によって、信仰のともしびが灯し続けられている。恵みによって信仰に歩もうとするので、常に祈りと感謝に生きることができる。自分の力で信仰に歩んでいるならば、どんなに感謝を口にしても、どこかに高慢が潜んでいるかもしれない。恵みが備えられているので、主の再臨がいつであっても安心して備えつつ生きることができるのだと思います。