静まりの時
- テーマ:主の道を備えよ
- 聖書箇所:黙示録22・8~13
- 日付:2025年12月06日(土)
10 また私に言った。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。
11 不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
「この書の預言のことばを封じてはなりません」。封じない、秘密にしておかない、公に明らかにする。神さまのおことばをこの世に宣べ伝える。御使いはこの黙示録を書いたヨハネにそう語りました。いまに生きる私たちも、この聖書のことばを秘密にしておかないで、多くの人に知らせたいと思います。
聖書のことばを知らせる目的は、人びとの救いです。聖書のことばを知らせることによって、罪の中に生きる人たちを、新しく生きるようにと導くこと。それが聖書のことばを封じないことだと思います。
そうだとすれば、この10節に続く11節に書かれていることは、少し理解するのが難しく感じます。もし聖書のことばを封じず、この世にあまねく知らせるならば、不正を行う者はその不正を止め、汚れた者は汚れから解放されるはずです。少なくともそういう目当てを持つべきです。また正しい者はますます正しいことを行い、聖なる者はますます聖なる者となるはずです。しかしここにはその逆が書かれています。みことばが宣教されることによって、それぞれの所業、生き方がより鮮明となるように語られています。
これは、聖書の言葉に力がないというのではありません。むしろ聖書の言葉の力が発揮されているのだと思います。
私たちが聖書の言葉を語るとき、それを聞く人たちが、ことごとく回心することを願っています。あるいは何らかの祝福の実が結ばれることを願っています。しかし聞く人たちがすべてそのようではありません。何ら心を動かすことのない人もいますし、反発を持つ人もいます。もちろん語る側のほうに大いなる問題がある場合もありますが、しかし聖書の言葉が語られても依然罪の中に生き続ける人はいます。
その人たちは、み言葉を聞く前と聞いた後で何か変わったことがあったのだろうか。何も変わらなかったのだろうか。
私は変わったのだと思います。一つの罪を犯しで生きている者が、み言葉を聞く前には、その罪の判断基準は自分でありこの世でした。しかしみ言葉を聞いた後では、その罪を判断するのは、自分でありこの世であるだけでなく、神さまであることを知らされることになったのです。
神さまの前にある自分、そしてその罪。それは同じ罪でも、まったく色合いが違って見えるのではないだろうか。ますます深いものとして見えるのではないだろうか。
そうであれば、正しいこと、聖なることも、み言葉を聞いた後では、それらは、神さまとの深い結びつきの中にあるものと受け止めることになるのだと思います。より鮮明に神さまの前に生きる者となるのです。