- 教会・集会名:礼拝では読まない箇所となりましたのでブログに残しておきます
- 日時:2025年10月31日(金)
- 聖書箇所:第一コリント7章36~40節
- 説教題:主にある信仰生活
暗唱聖句
これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。
第一コリント7章40節
説教要旨
自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら
「品位ある生活を送る」、そうして「ひたすら主に奉仕できる」。それが7章においてパウロの伝えたかったことのひとつです。結婚するにしても独身でいるにしても、品位ある生活が送れていないならば、また、ひたすら主に奉仕できていないならば、それが、その人自身の不幸となる。不自由となる。益とならないことになる。パウロはそう語るのです。
ですから自分を振り返って、「品位を欠いたふるまい」をひとたび発見したならば、それを正す努力をしなければなりません。それが主にある者の信仰生活です。そのために、結婚するのが良ければ結婚すればよいし、独身でいるのが良ければ独身でいればよい、とパウロは語りました。
主にある結婚に限ります
ただ、結婚する場合に「主にある結婚に限る」とパウロは言いました。主にある結婚とはいったい何か。キリスト教式の結婚式を挙げることか。キリスト者同士の結婚ということだろうか。おそらく、結婚する両者が、主の導きを深く感じ、主に喜ばれる結婚であると確信していることではないかと思います。そしてそれは、教会においても平和が築かれていくことであると思います。教会に嵐が起こるような結婚は、主にある結婚とは言えません。
教会が平安である。主が治めておられることによって平和が築かれていく。教会は牧師が支配するのでも信徒が支配するのでもありません。教会において民主的な運営は大切ですが民主主義というわけではありません。もちろん人間による独裁主義、専制主義であってはなりません。ある先生は教会は「クリストクラシー」である、と言われていました。キリストがご支配くださる、という意味です。しかしこれは実際にはなかなか難しいことです。コリントの教会では「私こそキリストにつく」(1章12節)という人がいて教会に混乱が起こり平和が乱されていました。キリストがご支配くださる、といいつつ、結局のところ自分の意見を押し通そうとすることが人間にはある、ということです。牧師が専制的に支配するのは大いに問題ですが、しかし信徒を大切にするといいつつ信徒が支配している教会であれば、キリストが支配しているとは言えません。牧師の責任放棄かもしれません。牧師は、主に仕える謙遜をもって教会を治めていかなければならないのです。そうでなければ必ず信徒が支配する教会になる、とその先生は語っておられました。
結婚に限らず、主にある、という言葉は教会の平安のために鍵となることばです。
私も神の御霊をいただいていると思います
パウロはここまでの言葉を「私の意見です」といい締めくくります。そしてその「私も神の御霊をいただいていると思う」と語りました。ずいぶん控えめな言い方ですが、主に仕える者の真摯な姿勢がうかがえるのではないか、と思いました。
おそらく、パウロのところに届く質問、あるいは意見は、みな信仰的な中に語られたことばかりなのだと思います。すべての言葉は、私は神の御霊に導かれた、と称して送られてくるのです。しかしそうして届いた意見の中には、他の意見は一切受け付けず、ひたすら自分こそ神の御霊をいただいているのだ、というものも多かったのではないか、と思います。
本当に神の御霊をいただいたうえでの意見であるかどうかは、聞く耳を持っているかどうかによって判断できることなのかもしれません。私たちは、使徒信条において、聖徒の交わりを信ず、と告白しています。私の内に聖霊は働かれると同時に、兄弟姉妹のうちにも聖霊は働いておられます。そして、その兄弟姉妹の交わりの中に、また聖霊は働いているのです。意見が交差し、時にぶつかり、また修正されていく、そうして御霊の導きが進んでいく。それが平安な教会の姿です。
祈り
天のお父さま。主にある信仰生活を送らせてください。そうして品位ある信仰生活を送らせてください。平和に満ちた教会を築かせてください。