静まりの時
- テーマ:とりなしの祈り
- 聖書箇所:ヤコブ5・13~20
- 日付:2025年10月23日(木)
13 あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。
14 あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
15 信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
「信仰による祈り」。果たして信仰によらない祈りがあるのだろうか。人間が祈る、というとき、それは自分の力ではどうしようもない現実を前にして、自分ではない何か、自分の外にある力のようなものによりすがろう、とすることではないだろうか。そこには、信仰、すなわち信じて仰ぐ、ということが多少なりとも生まれているのではないだろうか。
しかしそうであれば、ここで語られている信仰は、上記のような信仰とは別のものといえるかもしれない。
ここで語られている信仰とは、何かに願う、という自分の中にある信心のようなものではなく、まことの神さまへの信仰であり、それは主イエス・キリストの十字架と復活において現された神さまの愛への全き信頼のことではないだろうか。
神さまへの信頼による祈り。それは自分への信頼に絶望した中に生まれるものなのだと思います。
「病んでいる人を救います」。以前の訳では「回復させます」。新共同訳では「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」。共同訳2018では「信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます」。
「回復」という表記について。病気の場合は「快復」を使うのが一般的ですが、この「回復」が使われているということは、単純に病気が治る、ということが言いたいのではないような気がします。「救う」「起き上がらせる」という言葉は、たとえ病気がいわゆる快復しなくても、人生が回復される、起き上がる、という言葉に表されているような人生を歩む者とされる、ということかもしれません。そのような歩みのために祈りは欠かせません。
「教会の長老たち」を招いての祈り。長老とはこの場合、こんにちでいう牧師たちのことであり、また教会役員のことでもあると思います。私の学んだ神学校を運営していた教団では、牧師のことを教職長老と呼んでいました。ちなみに、信徒長老のことは信徒長老と呼んでいました。
それは牧師や役員が特別に、祈りの力がある、ということではないと思います。そこに明らかにされているのは、教会の祈り、です。教会はキリストのからだであり、目に見える教会と天上の教会の集合体であり、歴史に生き続けた教会をも包括する共同体である教会。その教会の祈りがささげられることの重要な意味が語られているのだと思います。
私たちの教会を包括する団体は、世界に祈りの輪をもっています。病気をしたとき、さまざまな問題に出くわしたとき、世界40か国以上、2千人を超える兄弟姉妹たちが祈ってくれました。昨今個人情報の問題があり、祈りの課題を分かち合うのが難しくなっているのは致し方のないことですがちょっと残念ですね。