生きた、いつまでも残る、神のことば

静まりの時

  • テーマ:いのちのみことば
  • 聖書箇所:第一ペテロ1・22~25
  • 日付:2025年10月01日(水)

22 あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。
23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
24 「人はみな草のよう。
 その栄えはみな草の花のようだ。
 草はしおれ、
 花は散る。
25 しかし、主のことばは永遠に立つ」
 とあるからです。
 これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。

キリスト者は「新しく生まれた者」です。新しく生まれた者は、「偽りのない兄弟愛を抱くように」なりました。兄弟愛、すなわちキリスト者同士の愛です。キリスト者は世に向かって愛の宣教に派遣される者ですが、そのまえに、まずキリスト者同士が互いに愛し合うものでなければなりません。キリスト者同士の間に愛がないならば、世に向かっての愛は空っぽの愛です。

キリスト者が愛に生きることができるのは、新しく生まれたからです。真理に従う者とされ、そのたましいが清められました。そうして新しく生まれたので、愛に生きる者とされたのです。

新しく生まれたのは、「朽ちない種から」でした。朽ちない種とは「生きた、いつまでも残る、神のことば」です。

この朽ちない種、生きた、いつまでも残る、神のことば、とは、イエス・キリストのことです。そしてイエスさまの十字架と復活のことです。

神さまがそのいのちをささげるほどに私を愛しておられる。復活によって死を滅ぼし、世の終わりまでともにいると約束してくださった。そのことを「信じた」ことによって、私たちは新しく生まれました。

「信じる」とは不思議な言葉です。信じるためには、それに先立つ事実が必要です。その事実は信じる者が作り出すことはできません。信じる者に関わりなく存在している真理。それを信じる。

信じたということは、信じるに値するものである、と了解したのですが、しかしそうして信じた者がそれを判断することができるほどに確かな存在であるのかというと、どうもそうでもない。信じたという私は、罪びとでありあやふやなものである。

しかし信じた、ということですから、その信じたは、限りなく「信頼した」に近い。信頼したということは、信じてより頼んだ、ということであって、自分よりも確かなものに、自分自身を委ねた、ということである。つまり、自分よりも確かである、というものに寄りすがって生きる者となった、ということ。

つり橋を渡るときに、そのつり橋が私の全体重を支えることができ、向こうまで渡るまでしっかりと安全に存在している、ということを「信じて」渡ることになります。調査し科学的な根拠がしっかりと理解できて渡るのではありません。

自分の力では渡ることができないので、つり橋に頼らざるを得ません。そのつり橋を信じるということ自体は私の決意です。しかしそう決意している私自身を終始支えているのはつり橋自体である、という状況です。橋を渡る間は、つり橋のことなど忘れて景色を眺めたり、ともに渡る友人と世間話をしたり。これが信じるということについて思い巡らすことなのですが、神さまを信じる、と言うことにおいても、少し似たところがあるように思います。つまり信じる、ということは、自分のすべてを委ねるということなのです。

もし信じるといいいつつ、自分の経験、自分の感覚、自分の理解力、などを土台としているならば、その信仰は砂上の楼閣です。

聖書の語る「信じる」は、イエスさまにすべてを委ねて生きることであり、イエスさまご自身が土台です。イエスさまこそゆるぎない岩であり、生きた、いつまでも残る、神のことばなのです。

このゆるぎない土台の上に建てられた信仰こそ、兄弟愛を生み出すものです。


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