人間の奴隷となってはいけません

静まりの時

  • テーマ:主人と僕
  • 聖書箇所:第一コリント7・20~24
  • 日付:2025年09月25日(木)

22 主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
23 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。

主にあって召される、ということは、すなわち、どのような立場、どのような職業、身分であっても、それは主がそうなさったことである、と受け止めることです。そのように受け止めるとするならば、たとえ奴隷であっても自由人である。不自由な中に置かれていたとしても、主がそうしてくださったのだ、と受け入れるならば、たちまち自由の身になる、ということでしょう。逆に主がそうしてくださったと受け取れないとすれば、すなわちその置かれたところに不満を持ち続けるならば、自由ではないのです。
さらに自由人であっても、主にあって召されたならば、キリストに属する奴隷、すなわちキリストに仕える者である、といいます。自由だからと言って好き勝手に、気ままに生きるというのではなく、本当の自由というのは、仕える者となる、ということである。
そうして主の「奴隷」となることによって、まことの自由を得、人間の奴隷になることから解放されるのです。
人間の奴隷とは、他者の支配の中に置かれるということを想像しますが、それ以上に、自分という人間の奴隷になるということも想定されています。私たちは、キリストというまことの神さまの命という代価を払って買い取られたのです。あらゆる「奴隷」状態から解放されて、まことの自由の中に置かれています。
ですから「召されたときの状態にとどまる」「召されたときのままの状態で、神の御前にいる」ように勧められています。

さて21節は、新改訳、フランシスコ会訳、口語訳と、新共同訳、共同訳と大きく違っています。

新改訳2017では

21 あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。

一方、共同訳では

21 召されたときに奴隷であっても、それを気にしてはいけません。自由の身になれるとしても、そのままでいなさい。

原文では、「よりいっそう」「用いなさい、行動をとりなさい」という言葉ですので、自由の身になれるのなら、その機会をよりいっそう用いて、自由になりなさい、と訳されますが、同時に、自由の身になれるとしても、よりいっそう奴隷としての行動をとりなさい、とも訳されるのだと思います。

解釈の分かれるところだと思いますが、文脈では、「召されたときの状態にとどまる」ことが勧められていますので、共同訳のほうが理解しやすいかもしれません。少なくとも、積極的に解放の道を歩むように勧めているようには理解できないと思います。

聖書は、まことの自由とはいったいなんであるのか、を語っています。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: