主人が兄弟だからといって軽んじることなく

静まりの時

  • テーマ:主人と僕
  • 聖書箇所:第一テモテ6・1,2
  • 日付:2025年09月22日(月)

1 奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません。神の御名と教えが悪く言われないようにするためです。
2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽んじることなく、むしろ、ますますよく仕えなさい。その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから。
 あなたはこれらのことを教え、また勧めなさい。

「奴隷としてくびきの下にある人」。今日奴隷に直接当てはまる人はいないと思いますが、何らかの意味で「くびきの下」にあるのが人間ではないか、と思います。
くびきとは、広辞苑では「①車の轅(ながえ)の端につけて、牛馬の後頸にかける横木」とありますが、二つ目の意味として「②(比喩的に)自由を束縛するもの」とあります。
何らかの責任を持っている、何かの管理の下にある、あるいは生まれながらの心身の不自由さをもっている、病の中にある、病の床についている、などなど、何らか不自由さのなかに置かれている、それが人間の人生ではないかと思います。
そこで、仕えていく、という生き方が可能となります。
くびきの存在しない中では、仕えるとか、奉仕する、ということは起こり得ないのです。もしくびきなく、すなわち何らかの形で不自由さを感じることのない中で、仕えるとか奉仕するというならば、それは単なる自己満足でしかないように思います。
不自由さを感じる中で、しかしそこでその不自由さを乗り越えながら、仕えていこうとするところに、人間としての健やかな生き方が生まれるのではないか。そこにこそ、まことの平安や平和があるのではないだろうか。

「自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません」。かなり回りくどいような言い方ですが、おそらく、尊敬する部分がない、としても、尊敬に値する人と「思う」ということが語られているのだと思います。
完璧な人間はいません。尊敬する部分もあれば、そうでない部分もあるのがお互いです。尊敬する部分が無いから仕えない、仕えたとしても表面的な仕え方で、心の中ではどこか主人を罵る、否定する、というのではない。どのような主人であっても、その主人を「尊敬する」ということから、仕えるということは始まる。そう語るのだと思います。

その目的は「神の御名と教えが悪く言われないようにするため」である、と言います。どうしてそんな主人に仕えることができるのか、とこの世に驚きをあたえる。なるほとキリスト者というのは、そういう存在なのか、と驚きをあたえる。そのようなキリスト者たちが信じる神さまとはなんと驚くべき神さまなのか、とこの世が感心する。そのようなことかな、と思いました。
神さまは人間を通してご自身を明らかにしようとされます。

「信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽んじることなく、むしろ、ますますよく仕えなさい」。
兄弟姉妹という言葉は、教会の交わりの豊かさを現す素晴らしい言葉だと思います。しかし同時に、ここに罪人の甘えが出てしまう、ということもまた事実です。兄弟姉妹という言葉を使って、自分の非礼の言い訳とする、相手を軽んじる。そうであってはならないと聖書は語ります。

「その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから
。これが誰を指しているのかがこの訳では不明確ですが、共同訳などでは「その良い行いを受ける主人は信者であり、愛されている者だからです」と訳されていて、益を受けるのが主人であることが明確にされています。
「信者」そして「愛されている者」それが自分の仕える主人である。誰を信じている人なのか、誰に愛されている人なのか。いったい誰のものなのか。それが確かにされる。それが仕えることを可能とする。

すべての人は、主のもの、なのです。だから私たちは誰であっても、尊敬心を失わず、心から仕える者となるのです。そしてそのような自分自身が、まず主のものとされていることを確かにします。


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