夫たちよ、妻を愛しなさい

静まりの時

  • テーマ:結婚
  • 聖書箇所:コロサイ3・18,19
  • 日付:2025年09月19日(金)

18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
19 夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。

「従う」という言葉はあまり好まれない言葉なのではないかと思います。特に宗教の世界では、カルト化のにおいがする言葉ではないかと思います。しかし聖書は大胆に「従いなさい」と語ります。
これは、夫たちに語られる「愛しなさい」という言葉と呼応している、というか、セットになっている言葉ではないかと思います。
共依存的な愛ではなく、真実の愛で愛されている、すなわち自由がある愛の中にあって、従うということが真実に成り立ちます。従うの前提には自由が必要なのです。愛されていない、強制されている、という状況の中での「従う」は、にせものの従うです。主にある者にふさわしい、ということは、主に愛されている者、主を愛する者としてふさわしい生き方があり、それは「従う」という生き方である、ということだと思います。

愛するということがあって、従う、ということが生まれ、真実なものとなります。愛さないところでは、従う、ということは生まれません。従う、ということが期待されているならば、まず、愛する、ということが実現していなければなりません。

愛する、とは、「辛く当たらない」ことです。辛く当たる、とは、一体どのように当たることでしょう。ギリシャ語では、苦い(にがい)、という言葉で、腹を立てる、とも訳される言葉だそうです。
私たちはどんなときに腹が立つでしょうか。気に入らないことをされた、あるいは、気に入ることをしてもらえなかった、そんなときに腹が立ちます。感情ですから、仕方のない反応だと思います。もしそういうことが無いならば、もはや、人間として生きているとは言えない、と思います。
ただその怒りをどう治めるのか、も、人間として生きていくということの重要なテーマです。腹立ちまぎれに怒りをぶちまけているならば、それは、人間として成長しているとは言えません。

たいてい怒りを爆発されるとき、というのは、自分のなかになんらかの正義があるからです。それが他人から見れば大そうゆがんだ正義に見えるかもしれませんが、本人としては、まさにまっとうな理屈に裏打ちされた正義感があって、怒っているのだと思います。

しかしその正義は果たして本当に正しいことなのだろうか。相手にも人生があり、また置かれた状況があり、なにも私のためにその人が存在しているわけではないのではなかろうか。そんなことを少し考えてみるとよいかもしれません。

愛する、ということは、積極的に相手に何かをすることもありますが、まずは、辛く当たらない、腹立つ自分を正当化しない、ということなのではないか、と思います。

聖書は、イエスさまを信じる信仰に生きるために書かれました。ですからこのような個所も、単に一般的な夫婦生活のあり方などということが書かれているのではありません。夫も妻も、互いに愛し、従う関係があってこそ、イエスさまを信じる信仰に喜びと感謝をもって生きることができる、ということです。夫婦喧嘩をしていては、信仰も何もあったものではありません。


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