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あなたがたが心を一つにし、声を合わせて

静まりの時 ローマ15・1~6〔兄弟の弱さを負う〕
日付:2025年07月14日(月)

1 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。

 力のある者とは、強い者のことであって、それは信仰の自由の中に生きることのできる人たちです。逆に力のない人たちとは、弱い者のことで、野菜しか食べない人(14・1)のことです。
 なぜ野菜しか食べないのか。肉をどうして食べないのか。それは肉が偶像に献げられたものだからであり、また旧約聖書の中にある食物規定(レビ記など)に忠実に生きようとしたからです。
 どちらかに生きなければならないというのではなく、教会は、強い人も弱い人もともに集うところです。どのように共に生きるのか。それは強い者が弱い者の弱さを担う、ということで、共に生きる道を築こうとします。
 弱い者が強い者を担うのではありません。強い者が弱い者を担うのです。それは強いからです。どのように担うのか。自分を喜ばせない、ということで、その弱い者の弱さを担うのです。

2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。

 自分を喜ばせないで、隣人を喜ばせることによって、弱い者の弱さを担います。隣人を喜ばせるためには、自分を喜ばせてはいけないと言われています。自分も隣人も喜ぶという道を歩みたいものですが、強い者と弱い者がともに集うとすれば、そこで隣人を喜ばせようとすれば、どうしても自分のあり方を治める必要があるでしょう。
 隣人を喜ばせるということは、ちやほやすることではありません。霊的な成長のために、益となることを隣人のために図ることです。霊的な成長とは、ただひたすら神さまにのみにお頼りをして、ひとすじに信仰に生きることです。そのために妨げにならないようにする。その人がまっすぐ神さまを見上げることが出来るようにする。それが隣人を喜ばせることです。
 伝道者はこの点で多くの間違いを犯す可能性を持っています。伝道者が交替すると途端に信徒が教会から離れていく、ということがいくつもの教会で起こります。それは神さまではなく、伝道者という人間を礼拝するということが起こっているからかもしれません。信徒も問題ではありますが、そのようにさせてしまうのは伝道者の責任です。神さまの邪魔をしないようにしなければなりません。

3 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、
 「あなたを嘲る者たちの嘲りが、
 わたしに降りかかった」
 と書いてあるとおりです。

 どうして強い者が弱い者を担うべきであるのか。弱い者が、まっすぐに神さまを見上げ続けることが出来るように、強い者は配慮しなければならないのか。それは、イエスさまがそうなさったからです。イエスさまが、ご自分を喜ばせることをなさらなかった、それが、強い者が弱い者の弱さを担う根拠です。
 ここに旧約聖書が引用されています。私たちは旧約聖書といいますが、この当時聖書といえば旧約聖書しかありません。教会はつねに聖書を引用します。

4 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。

 書かれたもの、すなわち聖書(旧約聖書)は、教会に生きる私たちを教えるために書かれました。私たちは学び続けなければなりません。学ぶということにおいて完成はありません。
 何を学ぶのか。それは、忍耐と励まし、です。旧約聖書に書かれていることは、ことごとく、忍耐と励まし、である、とパウロは語ります。どこを読んでも私たちに忍耐を与え、励ましを与える神さまの言葉。それが聖書(旧約聖書)です。そのように聖書は読まれなければなりません。もしそれ以外の読み方をしているとすれば、それは聖書を読んでいないことと同じです。
 この忍耐と励ましが、希望を生み出します。そしてその希望と保ち続けることができるように私たちを守ります。
 聖書の与える希望は、忍耐と励ましに基づいています。忍耐と励ましのない希望は、希望ではなく、願望であり欲望です。忍耐があれば、そして神さまの励ましがあるならば、私たちは確かな希望に生きることができます。

5 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

 祈りの言葉です。忍耐と励ましの神。それが私たちが信じる神さまです。その神さまが私たちに、互いに同じ思いを抱かせてください、と祈っています。互いに抱くべき「同じ思い」とは、この場合、強い者が弱い者の弱さを担う、ということでしょう。そうして希望に生きるということでしょう。
 キリスト・イエスにふさわしく、そのようにしてください、と祈っています。ふさわしい仕方があるのです。教会は、キリストにふさわしい仕方で、一つの心にしていただくようにと祈ります。
 これは人間の努力でできるようなことではなく、まさに祈りによるのです。

6 そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

 声を合わせる。シンフォニーという言葉です。様々な音色の楽器が奏でる音が、指揮者のもと、豊かに響き合い、一つの交響曲を生み出します。強い者ばかりになる、あるいは弱い者ばかりになるということが望まれているのではありません。礼拝は、交響曲のように、強い者も弱い者も共に集まり、ともに礼拝を捧げます。そうして父なる神さまをほめたたえます。どんなに素晴らしい音色を出す楽器があっても、スタンドプレーは望まれていません。全ての楽器が指揮者であるイエスさまのもとに従うということがあって、交響曲は美しく生まれます。
 私たちの神さま、すなわち三位一体の神さまはこのような美しさをもった礼拝を喜びとし待ち望んでおられます。


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