静まりの時 ヨブ3・1~16〔神の前に立つ個人〕
日付:2025年07月12日(土)
1 そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。
2 ヨブは言った。
3 私が生まれた日は滅び失せよ。
「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。
1章では「ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった」(22)、2章でも「ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった」(10)と記されたヨブでしたが、3章に入って一転します。3章の独白において、愚痴をこぼし、神を呪うかのような言葉を語ります。
この一見不信仰に思える言葉ですが、しかし神を信じる者、神に期待している者でなければ語られない言葉でもあります。もし神を知らなければ、愚痴さえも語られることはありません。苦しみを経験したヨブは、その苦しみを苦しむことによって、神さまの大きな愛と慰めに出会っていきます。またそのようなヨブだからこそ、他者への慰めの使者として遣わされます。
「苦しんだことのない人びとというものが、どんなにがまんのならないものかは、人生があらゆる仕方で教えてくれる。挫折と悲哀こそ、人間がその兄弟たちと共感し、交わるためのパスポートである」
(ロバート・ゴルディス、『神と人間の書―ヨブ記の研究(上)』、教文館、1977,1986、267頁f)。
もちろん苦しみが人の根性を捻じ曲げ、がまんならない人に作り上げることもあります。単純に苦しみが人を愛の人に作り変えるというのではありません。苦しみのない人生はありません。誰もが苦しみを「体験」します。しかしその苦しみがその人のうちで「経験」となる。それによって、他者への慰めの使者となる可能性が生まれます。苦しみを経験すること、すなわち「苦しむこと」。それが人を造り替えるのです。ヨブの独白は、まさに苦しみを正面からとらえ、苦しみを苦しむヨブの姿なのだと思います。