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祈りのために、心を整え身を慎みなさい

静まりの時 第一ペテロ4・7~11〔信徒の交わり〕
日付:2025年07月05日(土)

7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

 主にある者は、万物の終わりが近づいていることを信じています。万物にはいつか終わりがやってくる、というのではなく、神さまがすべての支配者であり、万物の終わりをもその御手の中に置いておられ、終わりを定めておられる、ということです。その終わりをキリスト者は知らされているのです。今の世が漫然といつまでも続くとは考えていません。ですから、今の時が神さまの御手の中にあることを知って大切に生きます。
 今の時を大切に生きるとは、祈りのために、心を整え身を慎むことです。心を整え身を慎むこと、とはさらに具体的には、互いに熱心に愛し合うことです。互いに熱心に愛し合うということは、互いの多くの罪をおおうこと、すなわち赦しあうことです。
 主がその創造の御手をもって、すべての終わりを定めておられる、その終わりの時がすぐそこに近づいている、だから私たちは、互いの罪を赦しあいながら生きる道を選択します。

 しかし現代は、互いの罪をおおうどころか、むしろそれを暴き立てる時代となっているようです。そのような世の流れに抗いながら私たちは赦しあう道を選択します。

 ただ私たちは本当に赦しあうことができるのでしょうか。赦すという言葉が、力をもつ、ためには、本当にさばくということが出来るのでなければ意味がありません。裁判官が告げる無罪に力があるのは、裁判官がさばくことのできる存在だからです。私たちはさばくことができるのか。言葉の上で断罪したり、悪口を言ったりすることはできるかもしれません。しかし人間である限り本当にさばくということはできないはずです。ですから、赦すということもできないはずなのです。
 唯一赦すことが出来るのは、唯一さばくことのできる神さまだけです。その神さまが、赦すと語ってくださいました。しかも口先で語るだけではなく、ご自身の命をもって赦しを実現してくださいました。
 この赦しを真実に受け取ったならば、私たちが互いに愛し合う道、すなわち赦しあう道が開かれていきます。私たちは自らの罪の深さを知り、その罪が赦されたことを知ってはじめて赦しに生きる者となります。


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