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私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します

静まりの時 使徒6・1~6〔信徒の交わり〕
日付:2025年07月02日(水)

1 そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。

 「弟子たちが」。イエスさまを信じた人たちのことを聖書は「弟子」と呼びます。「私、クリスチャンなんです」「あの方はクリスチャンなので」と言われるところで、「私、キリストの弟子なんです」「あの方はキリストの弟子なので」と言われることを想像すると、少し背筋が伸びます。
 「弟子たちが増える」。教会の人数が増えることは喜ばしいことです。しかしまた問題も起こることになります。問題が起らないということは良いことですが、それがただ弟子たちが増えていないことに起因しているとすれば考えなければなりません。問題が起るのは、教会が前進しているからかもしれません。
 同じユダヤ人でも、ギリシャ語を使うユダヤ人と、ヘブル語を使うユダヤ人がいたようです。長い歴史の中でこのような違いが起っていました。たとえば海外に移住した日本人は、やはり現地の言葉のほうが母語になるでしょうし、文化にも違いが生まれます。ちょうどそのようです。しかし彼らはそのような違いをもちながらもともに「弟子」でした。一緒に教会に集っていたのです。そこで問題が起こりました。ギリシャ語を使うユダヤ人は少数派であったと思われます。
 苦情はどこから出たのか。やもめ、は何らかの理由で夫を失った女性のことです。おそらく直接的には苦情を言うことが出来なかったことでしょう。そのような彼女たちの心に共感した他の弟子たちが、代弁する形で苦情を申し立てたのだと思います。
 問題の中身は「毎日の配給」のことでした。「なおざり」という言葉ですが、簡単に言うと、自分たちのほうが少なかった、ということです。人間、どこでも問題になるのは「飲み食い」のことですね。

2 そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。

 12人。すなわち使徒たちは、弟子たちの全員を呼び集めました。全員です。何人でしょう。おそらく1万人以上がこの時弟子になっていたのではないでしょうか。にわかには信じがたいことですが、ここに最初の「総会」がある、といいます。
 宗教団体は、とくに法人運営においては、責任役員会の議決が大事です。それに対して総会の議決は明文化されていません。しかしキリスト教会は、総会の議決を大事にします。認証の必要な「規則」には総会が明文化されませんが、教会の規則である「教規」には明文化されます。どちらかが優先されるという意味ではなく、どちらも大切にすることがキリスト教会の運営である、といえます。
 その総会において、使徒たちが言ったことは驚くべきことでした。自分たちが何とか解決しようというのではなく、自分たちが第一にすべきことは「神のことば」なので、神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは、良くない、と言い放ったのです。
 使徒たちに、あなたがたの権威をもってこの問題を治めてください、解決してくださり、という願いをもって人びとは集まっていると思います。しかし最初に聞かされたことは、聞きようによれば責任放棄ともとれる言葉です。私たちも年初めに定期総会を行いますが、その席でさまざまな問題が検討される際、私のほうから「神のことばを後回しにしてこれらに仕えることはよくないので、後はよろしくお願いします」などという勇気は今のところありません。
 使徒たちが言いたかったことは、最優先されるべきことは「神のことば」である、ということでしょう。教会において、様々な活動が生まれます。しかしそれによって、神のことば、が後回しにされていないだろうか。もし後回しにされているとすれば、それはもはやキリストの教会とは呼べない。使徒たちの心にはそのような思いがあったのだと思います。
 ですから神のことばは優先されるべきことではあるか、そのほかのことはどうでもよい、とは言っていません。ちゃんと解決しようとします。

3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、
4 私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」

 「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち7人を選びなさい」。教会において信頼されている人物を選任します。執事、という言葉がありますが、もともとは「給仕する」という言葉ですので、ここで選ばれた人たちは最初の執事と言われます。御霊に満ちている、ということは、信仰的にしっかりしている、ということでしょう。礼拝は欠かすことがありません。日々の祈りとみ言葉、いろいろな場面での信仰的な判断力を持っています。知恵に満ちている、ということは、単に知識が豊富ということよりも、やはり適切な常識、判断力、良い意味で空気を読むことが出来る、配慮をすることが出来る、ということでしょう。そして評判の良い人たち。信頼されている人、あの人に頼んだら安心して任せることが出来る、自分勝手に独断でやってしまうことがない、細かな配慮もできるし、いろいろな人に受けがいい、敵対している人が少ない、などということでしょう。そういう人を、教会は選ぶようにと、使徒たちは指示をしました。
 選任は、選挙で行うことが民主的ですが、民主的なことを求めたのではなく、神さまがご支配くださるところを求めたのだと思います。ですから単純な選挙ではなく、まずふさわしい人物を検討したのだと思います。その上でノミネートされリストアップされたのだと思います。こうして7人が選ばれました。7という数字は完全数ですので、ここに執事会の完全性が明らかにされているのだと思います。執事会を自分たちが選んだからには、それに自分たちは従うということが伴っています。
 一方使徒たちはあらためて、自分たちは、祈りと、みことばの奉仕に専念する、と言いました。これは集まった会衆に許可を求めているのではなく、話し合いで可否を決めることでもありません。議論の余地はありません。まさに宣言したのです。

5 この提案を一同はみな喜んで受け入れた。そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、
6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた。

 この提案を一同はみな喜んで受け入れました。総会に出された使徒たちからの提案は満場一致で決しました。これも大切なことです。多数決で決めることも大事ですが、できれば議論を尽くして、多数の意見の間に溝があるならば、その溝を埋める努力が大切です。できれば満場一致を目指す大会運営のあり方を求めるべきなのだと思います。
 ステパノが最初に記載されているのは、一番信仰と聖霊に満ちていた、という意味かも知れませんが、この後のステパノの説教、殉教への道に続くことなのだと思います。また中に改宗者が含まれているということは、この人選がかなり配慮にとんだものであったことを想像させます。
 選ばれたこの7人は使徒たちの前に立たされました。そして使徒たちは彼らのために祈ります。手を置く、按手の祈りを捧げました。今日でいうところの按手というよりも、ただ祝福を祈ったというぐらいの意味だと思いますが、しかしやはり按手の一つの原形があるのだと思います。
 今朝の個所ではありませんが、これに続く7節には以下のように記されています。

7 こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。

 問題は、チャンスでもあります。問題が起るのは良くないと考える人もいますが、問題が起るのは仕方がありません。罪びとの集まりなのですから。大切なのは、その問題をどのように解決するか、だと思います。解決の仕方によっては、より深い問題を生みかもしれません。しかし逆に祝福を生み出すことも可能なのです。
 聖書は「こうして、神のことばはますまず広まっていった」と言います。使徒たちの解決は、教会のさらなる前進を生み出しました。ユダヤ教の総本山であるエルサレムで、ますますキリストの弟子たちが増えていきました。それだけではありません。祭司たちが大勢信仰に入ったと言います。祭司たちは、簡単に言うと、与党、みたいなものです。国の中心的な人たちが弟子になって行った、ということです。彼にも、教会が配給の問題でもめているということは聞こえて来ていたでしょう。祭司たちが弟子になった。それには、配給の問題に対する教会の処理能力の高さが大きく影響していることは想像に難くありません。


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