,

私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

静まりの時 ガラテヤ3・13,14〔聖霊の約束〕
日付:2025年06月07日(土)

13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

 私たち人間は罪を犯して以来「のろい」の中にありました。のろいの中にあってなお永遠に生きることは、それに自体審きでもあり、また神さまの造られた秩序の破壊でもあります。それらをストップするように人間は死ぬ者となりました。
 キリストは、その私たちにかけられていたのろいをご自身の身に引き受けてくださいました。身代わりとなってくださったのです。それがキリストの十字架の意味であるとパウロはガラテヤ書において明らかにしています。
 私たちはキリストの十字架によって、のろわれたものでなくなりました。そして、キリストが受けるべき祝福を受ける者となりました。
 この祝福とは、かつてアブラハムに対して語られた祝福です。律法はモーセによってもたらされましたが、そのはるか以前になされたアブラハムへの祝福。それが、異邦人に及ぶ。そのそも、アブラハムは、その親族がカルデア人(創世記11・28)ですから、ユダヤ人から見れば異邦人です。その異邦人であるアブラハムが神の民と呼ばれるようになるのは、神さまの言葉に従って「あなたの土地」を「出ていった」ことからでした。
 こうして見るとユダヤ人と異邦人を分けているのは、民族でも宗教でもなく、神さまの御言葉に従って「あなたの土地」を「出ていく」人たちのことのように思えてきます。

 さて話しはそれましたが、イエスさまが私たちの身代わりとなって「のろい」となってくださったことによって、私たちの「のろい」は取り去られ祝福を受けるようになりました。のろいによってもたらされた死は、この十字架によって、そして復活によって、取り除かれました。
 そのさらなる目的は「私たちが信仰によって約束の御霊を受ける」ようになることでした。私たちが聖霊を受けることこそ十字架の目的だったのです。イエスさまの十字架を信じる者はすべて約束の御霊が与えられています。聖く生きる力、神さまに喜ばれる道を歩む力が与えられています。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: