静まりの時 使徒13・48~52〔地の果てまで〕
日付:2025年05月27日(火)
48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った。
49 こうして主のことばは、この地方全体に広まった。
「定められていた人たち」。
神さまは救われる人と救われない人をあらかじめ定めておられて、救われると定められた人は救われるけれども、そうでない人は、どうしても救われることはない、と読むことも可能かもしれません。しかし聖書は宣教することを力強く語っていますから、そのように定められているとすれば、宣教の意欲が失われてしまいます。あるいは、宣教の目的が、すべての人が救われる、ということではなく、定められた人へ福音を語るということになってしまいます。私たちは誰が定められた人かどうかが分からないので、とりあえず宣教しているといったことになります。これは聖書の趣旨とは大きく離れてしまうように思います。
今一つの理解は、神さまはすべての人が救われることを願っておられるのですが、救われるためには、その人が信じるということが必要です。信じるということは、たとえ神さまであってもその人の代わりにしてあげることはできない。信じるということは、その人が為さなければならないことです。この信じるということは、人間のわざ、行いと捉えられる可能性があります。しかし聖書は、そのように単純には考えていないようです。その信じるということも、神さまの御業なのだと言おうとしている。それがこの「定められていた人たち」という言葉に現れている。そう考えることもできると思います。
信仰を持った、ということが、どこまでも自分が信じるということをしなければ起こらないことなのですが、しかし本当に信仰を持った人は、それがキリスト教信仰であるならば、持たせていただいた、あるいは信仰をいただいた、と表現するのです。つまり神さまの御業である、私が神さまを選んだのではない、神さまが私を選んでくださったのだ、と喜びをもって告白するのだと思います。この「定められていた人たち」という言葉は、そのような喜びを表している言葉なのだと思います。