静まりの時 コロサイ4・2~6〔祈りの準備〕
日付:2025年05月23日(金)
2 たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。
「たゆみなく」。新共同訳では「ひたすら」。テサロニケ人への手紙第一の中の「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ5・17)とも通じる言葉ではないかと思います。
祈りというと、ひざをかがめて、目をつぶり、手を組んで、「天のお父さま」と唇からの言葉によって、父なる神さまにお話しすることです。平易な言葉で、心にあるものをそのままに言葉にして、発すること。それが祈りです。
しかしそれを、たゆみなく、ひたすら、そして絶えず、と言われると、少し大変な気がしてきます。ひざをかがめたり、目をつぶったり、手を組んだり、ということは、四六時中いついかなる瞬間もできることではありません。
そうするとこの「たゆみなく」ということは、祈りの姿勢を現している、と理解することもできると思います。祈るということにおいては、とかく気が散ってしまうこともあります。そういう誘惑にあらがいながら、たゆみなく、なまけずに祈る。祈りに集中する。
あるいは、ことあるごとに祈る、という理解も成り立つかもしれません。何かをするときには、とにかく祈りをもって始める。祈りをもって終る。祈りがすべてを包み込むように、そんな取り組みをしていく。生き方をしていく。
さらには「ひたすら」という言葉を、文字通り受け止めていくとすれば、今度は、自分の生きているすべての時間が祈りとなっていく、とも理解して良いようにも思います。朝起きて顔を洗っている時も、食事の時も、移動している時も、誰かと語らっている時も、そこにイエスさまがともにいてくださり、私が誰かに語っていることが、すべてイエスさまに向かっている。少なくともイエスさまが聞いておられることを見失わない。
3 同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。
4 また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。
パウロは自分たち伝道者のために祈ってほしい、といいました。その祈りの焦点は、キリストの奥義を語れるように、そして、それを語るべき語り方で明らかに示すことができるように、です。キリストの奥義を語る。しかも、それには語るべき語り方がある。その語るべき語り方で明らかに示すことが出来るように、と。
5 外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。
ここで外部の人たちと言われている人とはいったいどういう人であるのか。容易に想像できるのは、教会の外部の人たち、ということだと思います。そうすると、教会には明らかな境界線があって、内部と外部とに明確に分けることができる。それが教会である、ということができます。外部の人が、内部の人となるためには、その境界線を越えなければならない。それが洗礼式です。ですから洗礼式は、正しくは洗礼入会式と言います。
外部の人たちに対する態度、行動には、おのずと違いが出て来る。機会を十分に活かし、知恵をもって行動するとはいったいどういう意味だろう。内部の人たちは、気心も知れている兄弟姉妹なので、多少の甘えは許されるが、外部の人はそうではない、というような意味だろうか。警戒せよ、ということだろうか。
外部の人と内部の人の決定的な違いは信仰があるかないかですから、外部の人といった場合、それは未信者の人たち、という意味ともとれます。未信者は、いつまでも未信者なのか。それともやがてキリスト者となる求道者なのか。明確に求道しているとは見えないかもしれないけれども、神さまが招こうとしている大切な一人ひとりなのではないか。そうであれば、それは警戒することではなく、神さまの愛のもとに招くべき一人ひとりなのだと思います。それをいいかげんに扱うことはできません。
6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。
様々な場面で一人ひとりにどのように答えたらよいかが分からないのが私たちなのですが、とくに求道中の方にどのように答えればよいのか。さらには兄弟姉妹の交わりの中でどのように発言すればよいのか。
それは私たちの語る言葉が「いつも親切で、塩味の効いたもの」であるようにしていれば、分かる、と言います。普段どのような言葉を語っているかがカギです。「親切」は、共同訳では「快い」と訳されていました。塩味の効いた言葉というと、何やら厳しい言葉を想像しますが、それが快い言葉として語られる。難しことだと思います。ただ最初に考えたように、ひたすら祈る、どんなときにもそこで語ること、ふるまう態度、行動がイエスさまに向かってのことである、とするならば、そこで語られる言葉は、塩味の効いた、しかも快い言葉となるのではないか、と思います。