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ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た

静まりの時 使徒10・1~8〔祈りの準備〕
日付:2025年05月20日(火)

3 ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。その御使いは彼のところに来て、「コルネリウス」と呼びかけた。

 カイサリア。「カエサル」(皇帝)という名のついた町ですから、もとは違った名の町であったが、ローマの支配が及ぶと、そのような名の町に変えられたということでしょう。 その町にコルネリウスという名前の百人隊長がいました。遣わされていた、といったほうがいいかもしれません。百人隊長ですから、部下が100人という意味だと思いますが、歴史的にはおそらく部下は500人以上いたのではないかとある書物には書かれていました。
 その隊長のコルネリウスは「敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげて」いました。単に宗教的に信心深い人であった、ということではなく、ユダヤ教に改宗していたということだと思います。しかしユダヤ人ではありませんでした。イタリア隊ですからローマ人です。ユダヤ人から見れば異邦人です。
 今朝の個所、使徒の働き10章には、その異邦人であるコルネリウスを、使徒ペテロたちが受け入れ、洗礼を受けさせる、という出来事が記されています。この出来事はまもなく初代の教会に大きな問題を生み出し、公会議といっていいと思いますが、エルサレム会議(15章)が開かれることになります。
 その大きな問題、あるいは教会の転機、そして成長、世界宗教への拡大は、ひとりの敬虔な人物の祈りにおいて始まりました。神さまは祈りによってことを初めてくださいます。
 コルネリウスの祈りと行動(1~8)、そしてペテロの祈りと行動(9~23)、二人の出会い(24~33)、ペテロの決意と行動(34~48)。神さまの力強い働きが前進します。
 汚れたものを食べてはいけない、とはレビ記11章などに書かれていることです。聖書に明記されていることです。しかしそれを変えていくという事態に前進します。
 聖書の読み方ですが、私たちキリスト者は、ユダヤ人がヘブル語聖書と呼ぶ書物のことを旧約聖書と読んでいます。旧い契約の書、という意味です。それに対してマタイ福音書から黙示録までの27巻の書物を新約聖書と呼びます。つまり旧約聖書は、そのままで読まない、新約聖書の光の中で読む、というのがキリスト教信仰です。
 そうして汚れたものを食べてはいけないという宗教の規定は、新しく解釈されることになりました。「食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです」(第一テモテ4・3)。

 祈りによって生まれたものとはいったいなんであるのか。祈りによって何が変わったのか。この個所に限って考えるならば、それは「自分の考え」「自分の文化」「自分の固定観念」、つまり「自分自身」です。それまで、ユダヤ人と異邦人の間には深い溝、大きな壁がありました。コルネリウスとペテロが、それぞれの祈りの中で神さまの御取り扱いを受け変えられていったのです。自分が変えられるために特別な祈りの時を持ったわけではありません。いつもの祈りの中で、神さまは彼らにお出会いくださり親しく語ってくださいました。その祈りの中で、彼らはチャレンジを受けて変えられていったのです。それがキリスト教宣教の画期的な前進を生み出したのです。多くの反対者も生み出しましたが、それは世界宗教への必然的な出来事だったのだと思います。

 祈りによって自分が変えられていく。それが聖書の語る祈りです。自分自身が変えられていく。そのような祈りの時を持っているだろうか。そのような覚悟をもって祈っているだろうか。自分よりも神さまを変えるといったような勢いで祈ってはいないだろうか。深く考えさせられるところです。


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