静まりの時 第2コリント4・7~15〔新生の希望〕
日付:2025年04月30日(水)
7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
「この宝」。福音、信仰、イエス・キリストは宝物です。輝くものであり、貴いものです。貴いものであれば、それを入れる器も立派なものでなければならないような気もします。しかしパウロは、この宝を「土の器」に入れている、といいます。
土の器という言い方で表していることは、粗末で質素なもの、もろく壊れやすいもの、といった意味だと思います。立派な入れ物ではなく、粗末で質素で、もろく壊れやすいものに入れている、というのです。
その理由は、「この計り知れない力」、すなわち福音の力、信仰の力、イエス・キリストの力が、「神のもの」であって「私たちから出たものではないこと」が「明らかになるため」です。
神のものであって私たちから出たものでないことが明らかにされること。どうしてそれが大切なのか。
福音は、それだけで立派なものです。それだけで輝いています。力があるのです。それを入れる入れ物を立派にする必要はありません。
必要がないだけではなく、へたに飾り付けたとすれば、福音の立派さ、輝き、力をおおってしまう。器は質素であればあるほど、その中に入れた宝物の輝きが明らかになる。
せっかく新鮮で良い食材なのに、過度な味付けをし、食材そのものの味を損なってしまうような器に入れるようなことです。できるだけシンプルに提供することが、料理人の腕の見せ所です。
福音、信仰、イエス・キリストの力や輝きを十二分に味わい伝えるために、その器である人間は、できるだけ質素で単純なほうがいい。あるいは単純でなければ、輝きを隠してしまう。
教会の歴史を見ると、土の器どころか、むしろ飾り立てたものも多く見られます。荘厳な会堂建築は、もともとは神さまを讃え、人間を小さく見せるためだったのだと思います。福音を入れる入れ物である人間が土の器であることを明らかにしようとしたのです。しかしかえって権力のために利用されることもあり、土の器でなくなったこともあるのだと思います。
音楽や様々な芸術、賛美歌も、神さまの美しさを称えるためでしたが、それを歌う者の輝きのほうが強調されてしまうこともあります。
聖書朗読、聖書のお話しも、少しでも分かりやすく聖書を伝えたいとの願いから、身振り手振りを加えての話術やさまざまな機器を用いて語られることも多いのですが、かえって話者の人間的な魅力みたいなものばかりが前に出てしまうこともあります。
いずれにせよ、土の器、であることが忘れられると、福音の輝きが鈍ってしまう。
福音はもともと十分な輝きをもっているのです。伝える者の祈りとしては、福音の輝きをおおってしまうことのないように、どうか土の器に徹することができるようにあらゆる誘惑から守っていください、が大切なのだと思います。