静まりの時 ヨハネ20・1~18〔復活の信仰〕
日付:2025年04月22日(火)
6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
ペテロは墓に入り亜麻布が置いてあるのを「見ました」。もう一人の弟子も入って来て「見ました」。そうして信じた、と聖書は語ります。しかし不思議な言葉が続きます。彼らはイエスの復活を語る聖書を理解していなかった、と。いったい彼らの信じたとはどのような信じたなのか。
あとでトマスに語られた主のことばに「見ずに信じる者は幸いです」とあります。見て信じることと見ないで信じることに少なからず違いがある、と語るのかもしれません。聖書を理解せずに見て信じる信仰は、「再び自分たちのところに帰って行く」信仰になりがちである、ということかも知れません。それに対して復活の主とともに生き続ける信仰は、聖書を理解して信じる信仰に生きなければならない。
11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
マリアは泣きながら墓をのぞき込んでしました。すると天使に出会い、そしてイエスさまに出会いました。イエスさまに出会う瞬間のことを「うしろを振り向いた」と書かれています。それまで墓をのぞき込んでいたのですから、うしろを振り向いたということは、墓を背にし、イエスさまの方向を向いています。しかしそれがイエスさまだとはマリアには分かりません。マリアとその見知らぬ人との対話が始まります。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
いよいよそれがイエスさまだと分かる瞬間がやってきました。イエスさまと相対していたマリアが、ここで再び「振り向いて」イエスさまに呼びかけました。「ラボニ」。
再び振り向いてしまったら、イエスさまに背を向けていることになるのではないか。不思議な情景です。
この「振り向いて」は単に体の向きを現しているのではないことは明らかだと思います。見て信じるのではなく、振り向いて、自分の体の向きを変えて信じる。それが信じるということなのです。私たちは身体の向きが変わっているでしょうか。