静まりの時 使徒2・22~32〔復活の信仰〕
日付:2025年04月21日(月)
22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
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32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
聖霊降臨、すなわち教会が生まれ、弟子の一人、そしてイエスさまに「あなたのうえに教会を建てる」と言われたペテロが立ち上がって、説教を始めます。その焦点はイエスさまの十字架と復活です。
ペテロは、イエスさまの復活の証人、それが私たちです、と語りました。これはすでに1章21~22節において弟子の補欠選挙の際「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません」と語られていますが、12弟子、すなわち使徒というのは、復活の証人なのです。
弟子の補欠選挙の際「12」という数字にこだわったのは、弟子たちの集団が、旧約聖書において語られた神の国イスラエル12部族に重ねているからです。つまり教会は新しい神の国イスラエルである、との信仰告白がそこにあります。こうして旧約聖書のイスラエルはリニューアルされて、キリストの復活を信じる者は、教会こそ新しい神の国であるとその信仰に生き、いわゆる「イスラエル」に縛られることから解放されました。それは教会の信仰と、旧約聖書の信仰を比較すると明らかです。旧約聖書において永遠に守らなければならないと言われた数々の掟を教会は守っていません。動物の犠牲をささげません。食物規定も守っていません。安息日も本来は土曜日であるにもかかわらず、それを主の復活の日である日曜日に変更してします。復活の信仰に生きるということはそういうことであると教会は証ししたのです。
12弟子、すなわち使徒たちが復活の証人なのですから、復活を知るためには、使徒たちに学ばなければなりません。私たちは、復活を知るための「ソース(源泉、source)」をほかには持っていません。あるいはほかに持たないというのがキリスト教信仰であるとも言えます。
それで復活の主にお出会いするために、私たちは聖書を読みます。また使徒に直接的につながる古代教父に学びます。15世紀宗教改革者たちも古代教父に学ぶことで改革が健やかに進んだのだと思います。
使徒パウロは、いわゆるイエスさまの生き証人ではありませんでした。しかしダマスコ途上でイエスさまに出会いました。そうして主の復活の証人として立ち、自らを使徒と称し証しし宣教しました。私たちももちろんイエスさまの生き証人ではありません。しかしそれぞれがその信仰生活の中で、復活の主にお出会いしています。見ずに信じる者は幸いである、とトマスに語られた主のお言葉のように、私たちは見ずに信じる者として、主の復活の証人です。エマオに向かった二人の弟子たちが、イエスさまだと「分かった」瞬間、イエスさまが「見えなく」なりました。「神が分かる」ということと「見えない」ということは、深く結びついています。百聞に一見はしかず、の言葉のように、あらゆるものは、見ることによって分かる、ということが確かにされるのですが、神が分かる、ということにおいては、見えないということがとても重要なことである、と聖書は語ります。