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墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った

静まりの時 マタイ27・11~56〔十字架の道〕
日付:2025年04月18日(金)

50 しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。
51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、
52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。
53 彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。

 主が十字架上で息を引き取られたとき、いろいろなことが起こったと福音書は書いていますが、このマタイの福音書にだけ、死人の生き返り、が記されています。
 この生き返った人たちは、聖なる人たちであり、イエスさまの復活の後で、墓から出て来て聖なる都、すなわちエルサレムの都に入ってきて、多くの人に現れた、といいます。一体聖書は何を語ろうとしているのか。
 イエスさまが十字架上で息を引き取られたときに、死人の生き返りが起ったということ。しかし人びとに現れたのは、主の復活の後であった、ということ。生き返りの事実は、十字架の死のときにすでに起こっていた、しかし、それが世界に認知されたのは、主の復活の後であった、ということ。もちろんこの聖なる人たちの生き返りは、現在生きておられないことからして生き返りであって甦りではありません。つまり、再び死を迎える生き返りだったのです。しかしそこに、死は終わりではない、死は勝利に呑まれたということが胎動している、明らかにされているように思います。
 主の復活は十字架の死の三日後に起こることであり、この十字架の死の時点では、復活はないはずなのです。しかしマタイの福音書は、主の十字架と死は、復活を抜きにしては正しく知ることができない、と語っているのではないか、と思います。

 主の十字架を学ぶとき、ただそれを絶望として学ぶならば誤解してしまいます。神さまの死であることを見失ってしまいます。十字架と復活はセットで学ばなければなりません。十字架は私たちの罪のために、神さまがいのちを捨ててくださったことであり、私たちの罪は神さまのいのちをもってしか償うことのできない深いものであった。しかし神さまはそうまでして私たちを救いたいと願われた。十字架は神さまのあつい愛を現しています。しかしそれだけならば、十字架を誤解してしまうかもしれない。
 この十字架の御業は、神さまの承認するところであった。まさに神さまの御業であった。そのことを、主の復活は明らかにしている。復活は、死を滅ぼし、世の終わりまでともにいるということを実現してくださった。そうして私たちの救いは現実のものとなったのです。復活なしに救いはありません。
 まさに主の十字架は、神さまの御業なのです。神さましかできない御業だったのです。


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