静まりの時 詩篇51編〔あがない〕
日付:2025年04月10日(木)
4 私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。
私はあなたの目に 悪であることを行いました。
ですから あなたが宣告するとき あなたは正しく
さばくとき あなたは清くあられます。
罪や咎、というと、誰かに対して悪を行なった、という他者との関係においてのことを考えますが、聖書はまずは神さまとの関係においてのことを考えます。私たちは自分が罪人であると学んでいますが、それは神さまに対しての罪であるということが告白されて初めて理解されたということになります。もちろん他者との関係においても罪を犯す者なのですが、他者は私を正しくさばくことはできません。本当にさばくことのできるお方の前に、罪人である、と告白されて、はじめて罪人であるということが分かったことになり、そうして赦しの道が開かれるのです。
神さまのさばきは、清くある、と語ります。清い、すなわち人間の手垢がついていない。人間の思惑によって左右されることがない。神さまは正しいお方です。その方の前に罪人である、そうして、その方から赦しのことばを聞く。
17 神へのいけにえは 砕かれた霊。
打たれ 砕かれた心。
神よ あなたはそれを蔑まれません。
旧約聖書においていけにえを献げる目的は、罪の赦し、です。そこでは動物が献げられるのですが、その旧約聖書において驚くべきことに、「砕かれた霊」「打たれ 砕かれた心」、こそまことのいけにえ、献げ物である、と語られています。
もちろん依然、動物の犠牲は献げられたのだと思いますが、砕かれた心を伴わない犠牲には意味がない、砕かれた心があるならば、犠牲は多少どのようなものであっても神さまはそれを蔑まれることはない。他の訳では侮られない。いずれも、軽く扱うことはされない。大切に、重大に取り扱ってくださる。
本来罪人である私たちは神さまに大切にしていただける者ではないのですが、その神さまが私たちを大切に扱おうとされます。神さまに大切にされるお互いであることを、私たち自身も大切に受け止めなければなりません。大切に受け止められ続けるために、私たちが備えなければならないのは、この「砕かれた霊」です。人間は砕かれた霊、砕かれた心をもって、まことの人間となり、健やかな人生を歩む者とされます。
3 「心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。
4 悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるからです。
(マタイ5・3,4)