ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

静まりの時 使徒3・17~26〔悔改めへの招き〕
日付:2025年04月04日(金)

18 しかし神は、すべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。
19 ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。
20 そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。
21 このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

 「キリストの受難」は「実現」されました。神さまの圧倒的な全能の力によって救いの御業は、キリストの十字架、というかたちで実現されました。
 ですから、罪人である私たちに対して「悔い改めて」「神の立ち返る」道が拓かれました。私たちは悔改めることが出来、神さまに立ち返ることが出来るのです。
 「そうして」、主の御前から回復の時が来ます。私たちのために「キリスト」として定められていたイエスさまを、主が遣わしてくださいます。まさに来たらんとしている、将来」において、回復は文字通り実現します。
 しかし今しばらく「万物が改まる時まで」「天にとどまって」「いなければなりません」。主が再び来られ回復が完成するときは、将来のことであって、今はまだ完成していません。
 私たちは、すでに完成した十字架と復活の御業と、やがて主が来られる再臨のときの「あいだ」に生きている、とペテロは語りました。
 よって私たちの戦いは、勝つか負けるか分からないものではなく、すでにその戦いの勝利は確定しています。しかし戦いは完了しているかといえば、いまだ戦いは止んでいません。日々戦いの中に私たちはおかれています。
 しかしその戦いの結末はすでに勝利と決まっているので、安心して、また希望を持って戦うことができるのです。ある意味で負けるという選択も、すでに勝利を確信しているからこそできるのです。

 それにしても「罪がぬぐい去られる」とはどういう意味なのか。今までの罪が帳消しになる、ということなのか。これからの罪はその都度悔い改めなければならない、悔い改めたならば、ぬぐい去られるということなのか。何をしていても無罪放免になっていることなのか。罪を犯し続けても、罪とは認められなくなる、ということなのか。この辺は私も含めて人によってずいぶん未整理な感じがします。


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