,

あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

静まりの時 ルカ13・1~5〔悔改めへの招き〕
日付:2025年03月31日(月)

1 ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。
2 イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。
3 そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。
5 そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

 苦しみに会うことの原因が、それぞれの所業にあるとすれば、それぞれの罪深さが問われなければなりません。苦しみに会わないために、罪を犯さないようにすればよいことになります。しかし聖書は、滅びの原因はそれぞれの所業にあるのではなく、悔改めないことにある、と語ります。もし悔改めないならば、誰一人例外なく滅びると語ります。
 苦しみに会う人もいれば会わない人もいます。苦しみにあったとしてもその程度には違いがあります。そういう意味ではこの世は不公平です。しかし苦しみに会う人も会わない人も、また苦しみの程度に違いがあったとしても、みな一様に悔改めないならば滅びると語るのです。
 悔改めと聞くと、何が具体的な罪に対する悔改めの行為を考えますが、聖書は悔改めとは人生に対する態度である、と語っているように思います。
 礼拝の大切な要素に、悔改めの祈り、があります。礼拝において悔改めの祈りをすると、何度悔改めればよいのですか、などと訴えられた人がいました。一度悔改めたならば、もうそれ以降は悔改める必要はないと教えられて来られたのでしょう。悔改めが具体的な罪に対する行為であれば、そう問われることも無理はありません。
 しかし悔改めが人生に対する態度である、とすれば、これは常に悔改めを告白しなければならないことになります。
 私たちは生きるために食事をしなければなりません。食事をするということは、他の生き物のいのちをいただくことです。つまり他の生き物のいのちを奪っています。そうしなければ生きられないからです。ですから食事をするときに神さまに感謝をささげるのですが、そこには他のいのちをいただいていることの感謝を込めています。この感謝は、一度すれば終わり、ということではありません。私たちが生き続けるために、し続けなればならないことです。
 これと同じように、私たちは罪を犯した者ではありますが、罪びとそのものです。罪を犯さなければ生きていけない者なのです。自分を中心にしなければ生きていけない存在なのです。ですから常に悔改めが必要なのです。

 礼拝のプログラムは、自由教会においては、自由という名の不自由に陥っていて、人間の感情と気分、声の大きい人の意見によって混乱をしていますが、昨今はいちおう歴史の教会に学ぶことによって、礼拝が礼拝となっていく方向を見出していうようにも思います。
 神の招き、神のことば、感謝の応答、派遣、という要素に従って整えつつある礼拝プログラムに、この神の招きの部分に、悔改めの祈りを置くことが一般的であると思われます。現在、最初の賛美歌を歌いことになっていますが、まずここに悔改めの賛美を選択してもよいかもしれません。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: