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彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った

静まりの時 民数記9・15~23〔雲の柱・火の柱〕
日付:2025年03月12日(水)

17 いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。
18 主の命によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。
・・・
23 彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により、主への務めを守った。

 昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて、イスラエルの民は荒野を旅しました。それが主の命により旅をする、ということであり、それが「モーセを通して示された主の命により、主への務めを守ること」でした。
 自分の意志や思いで旅をするのではなく、ひたすら主に導かれること。それが人生の旅です。
 今日、雲の柱、火の柱が見えるのではありません。私たちにとって雲の柱、火の柱とは、いったいなんであるのか。主に導かれるとは具体的にどういうことであるのか。
 私たちを、いわゆる「導くもの」はさまざまに存在すると思います。スマホを見れば、たくさんのコマーシャルが私を導こうとします。自分のアクセス履歴に従って、YouTubeの案内が来ます。インターネットは、私たちの興味やあり方を客観的なものにするのではありません。私の興味や関心を強化します。陰謀論に少しでも興味があれば、そのような情報がどんどんやって来て、結果、すっかり陰謀論者になります。にせものの雲の柱、火の柱の代表的なものだと思います。
 自分の感情はどうだろうか。思い込みは激しくなってはいないだろうか。客観的に自分を見ることが出来ているだろうか。私の思いは、果たして健やかなものだろうか。

 聖書のことばは、一つの雲の柱、火の柱だと思います。しかし読み方によってずいぶんと偏った解釈も生まれます。歴史を振り返ると、聖書のことばに導かれたと主張しつつも、そこでなされたことが如何に聖書のこころと乖離してしまっていたか、という事例もたくさんあるようです。

 聖霊に導かれる、ということは、確かに雲の柱、火の柱だと思います。しかしそれも、自分の感情やその場の成り行きなどを、聖霊に導かれた、と主張することも数多くあると思います。

 おそらく、いずれか、というのではなく、いずれも、というのが良いような気がします。聖書に照らし合わせ、祈りの中で平安が与えられ、ともに生きる人たちにも平安をもたらしていく。そのような冷静な視点をもって、静かに思い巡らす。
 それを観想というのではないかと思います。


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