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私はなおも神をほめたたえる

静まりの時 詩篇43・1~5〔神に仕える決断〕
日付:2025年02月15日(土)

5 わがたましいよ
 なぜおまえはうなだれているのか。
 なぜ私のうちで思い乱れているのか。
 神を待ち望め。
 私はなおも神をほめたたえる。
 私の救い 私の神を。

 「なおも」ほめたたえる。
 うなだれている「私」がいる。しかしその「私」に向かって「なおも神をほめたたえる」と告白する「私」がいる。
 「私」はひとつでありながら、いくつもに分割されているのか。それとも「私」は立体的であって、見る角度によってさまざまな顔を持っているのか。
 あるいは、「私」に向かって、なおも神をほめたたえると告白する「私」は純然たる私なのか。それとも、そこに「他者」が働いているのか。

 人間は神さまに造られたものです。神さまに造られたとき「神に似せて」造られました。人間には「神の像」(イマゴ・デイ、イメージ・オブ・ゴッド)がある。その部分が、絶望の中にうなだれる私に向かって、なおも神をほめたたえる、と呼びかけるのだろうか。
 それとも、私の内には、そのような私に呼びかけるものは何ひとつない。しかし現に呼びかけている。そうであれば、そこに神さまが働いていてくださる、ことを信じざるを得ない。

 ヘンリ・ナウエンが、絶えず祈りなさい(第一テサロニケ5章17節)、の黙想の中で次のように語っています。
 「私たちの祈りが神との絶え間ない交わりになるのは、美しいことも醜いことも、うまくいっていることもいっていないことも、誇らしいことも恥ずかしいことも、悲しいことも嬉しいことも、あらゆる思いを、私たちの内に住み、私たちを取り囲んでおられる方の前で考えることができるようになったとき」。

 うなだれている「私」を、神さまと一緒に私が「観る」。神さまと一緒に私も「観る」。神さまが私を観ておられることを見失わないで、その神さまにまなざしに支えられて、私も「私」を観る勇気をいただく。そこで「なおも神をほめたたえる」という告白が生まれる。


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